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人間にはぬくもりがある

時々自分が人間だということを忘れてしまう。
そしてそのまま自分ではない人に触った時「うわ、生き物だ」と思ってぞっとする。
何だか柔らかいのに湿り気は少なくてちょっと毛も生えてて、指先で軽く押し込むと指が中へちょっとだけ沈んでいく。しかもなんかあたたかい。自分も同じような作りをした人間という生き物のはずなのに何故他人に触ってしまった時だけちょっと嫌な気持ちになってしまうのだろう。

人に触る、ということにどういう意味があるのか考えてみる。
私は誰かを気軽に触ったりはしないけど、昔はそうではなかった。仲のいい友達に抱きついてみたり、隣に座って肩と肩をくっつけてみたりしたこともある。1人を除いて嫌がられたことはなかったし互いが互いにそうすることで親愛の情を示していた。高校時代は学年に女子生徒しかいなかったというのもあったのか、みんながみんなそのような形でコミュニケーションをとっていたので結構当たり前の世界だった。

でも今はそういうかつての当たり前に違和感を抱いてしまう。歳をとって変わったことって何だろう。
太った、肌がくすんだ、ムダ毛が増えた、顔の筋肉が弛んできた、化粧を覚えた、大好きな友達にも嫌なところは絶対あるってわかった、無闇に人を信じると危ない体験をすることがあるってわかった。
色々あるけど主に自分の肉体の衰えと精神的なハードルの上昇だろうか。自分の懐の中に簡単に人を入れてはいけないということがわかったし、単純に自分の歳をとって醜くなった体を誰かに触れさせるのが申し訳ないという気持ちもある。
体が触れ合ってもぞわっとしないのはよっぽど仲の良い友達ぐらいで、家族からでも触られると嫌だなという気持ちがよぎる。

自分から触れる時には自分の衰えや他人への気持ちのハードルの変化があって行動の変化があったのがわかったけど、自分が誰かに触られるというのはどうなんだろう。
先述のように学生時代は友達からボディコミュニケーションがあってもさして嫌な気持ちにはならなかったが、今は本当にごく一部の友人以外の誰かに触られるのが結構辛い。
家族でもそれは同じで、頭に触れられたりすると勘弁してくれと強く思ってしまう。
誰かが私に触れてくるのはどんな時なのだろうか。
先述の気持ちの変化と合わせて自分が誰かに触れる立場になった時を考えると、そこには「信頼」であったり「強い親愛」の気持ちがあったりする。そのような感情を持つ相手に対しては人間関係における心理的なハードルが下がっているように感じて、触れてもいいのかなと思い、甘えるようにしてそうする。
ただ、お互いにそのような感情を抱いているのであれば問題はないのだろうが、その気持ちが一方通行だった時に私が誰かに触られた時に感じるような「嫌悪」を抱いてしまうのだろう。
「私はあなたのことを全部わかっていますよ」という気持ちを押し付けられたような気持ちになって「なにも知らないくせに」と思ってしまう。そしてなにも知らなくせに私に触ることで私のパーソナルスペースに入ってきて欲しくないとも思ってしまうのだろうか。
誰かと誰かが互いの全てをわかりあうことなどできないに決まっているのに、わかっていないから踏み込んできて欲しくないと思ってしまうのはそれはそれで私が相手に抱く甘えの気持ちなのだろうか、それとも拒絶の感情なのだろうか。うーん、両方あるんだろうな。

子どもの頃、背伸びをして読んだ大人向けの娯楽小説に出てきた肌と肌が触れあう描写がどうにも苦手だったのを覚えている。親愛を重ねた末に触れ合うものでも、なし崩し的に触れ合うものでも、その肌同士の柔らかさや触れ合うことで生じる湿り気や熱、興奮みたいな描写を読むとなんだか人と人が当たり前にそうしているように書かれているのが不思議なような、気味が悪いような気持ちにさせられた。
どうしてネガティブな印象を抱いたのか。それは私が、人が人に触れることがどういうことかわからないままに叙情的に描かれた描写を読んでしまったことで、理解のないまま答えだけを知ってしまった状態に陥ったからだと考える。
どうして人が人に触れようと思うのかという答えのない問いについて考えたこともないまま「人は人と触れ合うのが当たり前のものだ」という擬似的な答えを知ってしまったのはなんとなく冒頭に抱いたような人に触れることの嫌悪の下地になっているのかもしれない。

ん?ならなんで友達とだるーくゆるーく絡んでみることについては私は嫌じゃないと思っていたんだろう。服越しだから?友達だから?それ以上はないから?
謎は深まる一方である。あとでもう少し考えますね。

なんかよくわかんないけど今ちょっとラッキーで思ったより出費が浮いたんだ〜っていうあなた!よかったらサポートしてみない?