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大学の"必修授業"から学んだこと。

先日は、精華大学にて授業の振り返り会に参加させてもらった。

2017年より、精華大学特任講師の兼松佳宏さんにお声掛け頂いて、人文学部2年生のソーシャルデザインの授業をご一緒させてもらっている。僕自身は、2011年1月に福岡でテンジン大学の一環として「green drinks Fukuoka Vol.0」が開催され、参加者として出会い、その後は毎日のようにgreenz.jpを日課のように読みあさり、関東への出張の際には誰かにアポイントを取って会いにいくという習慣をもたらしてくれた方なので、巡り巡ってこうやってご一緒していること自体が感激であり、感謝だった。

そんななかで1年間、兼松さんとご一緒させてもらいながら、学生達と一緒にいて感じたことを言葉に綴ってみたい。なお、兼松さん自身の授業の振り返り考察も、勉強家として研究者として実施されていて素晴らしいので是非。

ソーシャルデザインを学ぶとは何か

この授業は、兼松さんがこれまでに経験をしてきたことを棚卸ししながら、「ソーシャルデザイン」とはどのようなことをいうのか、それはどんな考え方でどんなスキルがあるのか(求められるというよりは、あるのかという感じ)を丁寧に共有していくプログラムだったように思う。ただし「確立された」というよりかは、継続的に自身も学び、プログラムを発明し、実践しフィードバックを受けながら進化しているものだった。

そして、この授業が普段と異なるところはなにか。それは「やりたい!学びたい!」という状態ではないということだった笑。自身が実践者として経験したことを伝えていくうえで、共感性の高い相手であれば「わかるわかる」で進んでいくが、「そもそも、なぜ必要なの?」というところから考え始めると、理解するのに時間がかかる。「まちづくり」も同じく「やりたい気持ち」がベースだと伝わりやすいが、「そもそも何でやる必要が?」というスタンスだと、じっくりと想いや背景を共有していく必要がある(そして、やりたくないならやらなくてもよいと思っている)。

今回は「大学の必修授業」という枠組みなので、「そもそも」なのだ。ただ、兼松さんとお話し、大学の授業を経験し、その大切さは、改めて認識できた。ソーシャルデザインを学ぶとは、知識を学びながらも、自身と他者を理解し、ともに協力する地点や方法を探り、社会を広く観察し、自身の役立てる場所を見つけ、社会に新たな提案を行うとともに、新たな自身に出会う旅のようなものだったのだ。

そんななかで、いくつかの気づきを次年度に向けて残しておきたい。

少しずつ、好きや嫌いを発見していく時間。

この授業では「ワークショップ」という理由をつけ、他者と関わりながら進んだ。自身のアイディアを考えたあとに、他者に共有する。相手はそれを聞きフィードバックをする。無論、話したことがなかったり仲良くなかったりする相手だ。なので、なかには会話が弾まなかったり、寝ていて進まなかったり、そもそもそんな時間が嫌で出ていく子もいた(もちろんフォローするが)。

ただ、そんななかで「一緒に居たい相手」の発見や「知らない人と話すのが楽しい」といった気付きがあったように思う。以外にも話してみるとオモシロいやつがいたり、案外それを楽しみにしている自分に出会えたり。最初からずっと同じメンバーで集まる人も、授業で出会った人とグループを組む人もいる。両方を強制的に経験したからこそ、気付いたのではないだろうか。

そして、このことは人にだけでなく取り組む「プロジェクト」についても同じことが言えた。「やりたいな」と思ったことが楽しいときも、案外そうでないこともある。「適当に」と思ったことがハマることもある。

「やってみる」という行為を、半強制的に行っていけること(大学の必修授業ということ)が、この授業のオモシロさでもあると思った。普段であれば避けて通れるのだ。授業という言い訳をつくることで、得られることの1つはこういうことなんだと思った(大人になると、あそことあそこは一緒はダメとか別々でやっておきましょと調整したり、そもそもあいつがいるなら行かない!とか言い出すのだ)。

そんな中から、学生は「まだ、ここにない出会い」を自ら体験してみて、そのなかから少しずつ自身のことがわかっていったように思える。そして、社会を良くしていくデザインという前に、「まずは自分」を添えることの意味を改めて考えられたのではないかと思った。

記憶の先を一緒に辿っていて、出会ったこと。

もう1つ。学生たちと話していくなかで聞いた言葉で多かったのが「これでいいんですか?」ということだった。当たり前だ。公式があるわけでもなく、答えが1つなわけでもない。最終的にどうなるかなんて、やってみたいとわからないことをやっているし、マイプロジェクトは自身から始まることだから不安になるものだ。

そこで大事だったのが、じっくりと聞くことだったように思う。

例えば、「衝動買いをしてしまう」という習慣を失くしたいという学生がいた。知ったこっちゃない。買え買え!と思うし、買わなきゃすむじゃないかと思う。なので、結果的にはどちらでもいい。

ただ、彼がそこに何故それを書いたかということが大事だと思った。その行為をすることが自分にとって何を感じるのかや、その前後にどんなことがあるのか。もし、無意識に思い付きだったとしても、記憶に残っているということには何かしら意味がある。そう思いながら、話しを聞くことが大事だと思った。

そんななか、この学生と話していると「買う」ということよりも「それを誰かと共有する」ということがないこと、ただの消費で終わってしまっていることに寂しさやもったいなさを感じていた。買ったものの写真は記録されていて、しかもどうだったか聞いてみると彼自身の批評があってオモシロい。ならばと、自身の習慣を殺すのでなく活かす方法を考えてみては?ということになり「レビュー」をつくっていくことになった。

当たり前だが、問題に対して把握をした上でないと良い解決策は出せない。学生の「これでいいのかな?」に対して、「こんな事例があるよ」や「こうしてみたら」という教え方よりは、「どうしてそれが気になる?」「どうなったら嬉しい?」という問いかけが必要だ。

こういったことを繰り返し行ったことが、少しずつは学生たちにも伝わっていき「案外ちゃんと聞いてみると、色んな発見あるかも!」と思い、アンケート結果にも反映されたのかもしれない。だと嬉しい。

・「11. 人の話をじっくり聴いてみると、思わぬ発見がある」について、「そう思う」が15.1ポイント増、20%の伸び率。(男女とも)

大学の授業をソーシャルデザインする。

と、2つの気づきを書いてみたわけだが、今回の気づきは授業内だけではなかったというのが最後の1つ。1番の学びは兼松さんのスタンスだった。

それは、大学で担当する授業のつくりかた。

ありがたいことに、毎週火曜日の13-18時。授業があるときは、一緒に時間を過ごさせてもらった。授業前に今回の話をし、授業後に簡単に振り返りを行う。そのなかで、僕が描いていた大学の授業、そして講師のイメージが、とてもとても大きく拡張した。そんな時間だったように思う。

それは、こんなことからだ。

1つの授業単体だけではなく、学部内の他授業との関連や2回生のこのタイミングで学び、3回生のどんな部分に繋がるのか、学部外との繋がりをどう描けるか、他大学での実践例は何がありどう共有できるか、ソーシャルデザインを学ぶ教えるとは何かということを考察し研究しながら行われていた。

自身の関心である「勉強家」「空海とソーシャルデザイン」と、どう繋がりながら伝えていくかを言葉にされていた。

学生ひとりひとりが「学びやすい環境」であることを大切にするため、毎週フィードバックをもらい、必要であれば修正したり問い直したり、ときには時間をとり対話をされていた。

最初に話しを頂いたときに「大学の必修授業」と聞いて、いい印象を持っていなかった。だいたい寝てるだろうと笑。でも、そんな機会をジブンゴトとしてどう捉え、何ができるのかを考えて行動していくことの大切さをここで再確認した。誰もが「まぁ、それは無理そうだな」と思うことでも、流されない。

次年度も、またご一緒させて頂けるし、別でポピュラーカルチャー学部のソーシャルデザインの授業を担当させて頂くことにもなった。僕自身も学びを活かし、より良い場を考えていきたいと思う。


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