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本が読めなくなった3つの理由

よくnoteやSNSでも書いていることではあるが、わたしはここ数年、本を読めなくなっていた。幼い頃に文字が分かるようになってから小学生までは、本の虫だった記憶がある。偉人伝、図鑑、科学系、小説などなど、図書室にある本をたくさん借りていたし家にもたくさん本があった。でも、中学・高校と進むにつれて次第に本を読むことが減っていき、前の大学に入ったあたりからは殆ど読まなくなった。それが比較的最近までずっと続いてきたが、敬愛するお方のお陰もあって今は読書量が徐々に増えてきている。読書リハビリは順調なのである。

ふと気になったので、何故自分が本を読めなくなったのかについて振り返って考えてみようと思う。勿論、ここで言う「本を読めない」というのは文字が認識できないということではなく、読書という行為を行うことができない、読書をする気がおきない、ということを指す。

①文字を読むことに意味を求めすぎる
大学入試などでテスト勉強に追われると、実用的な参考書や教科書を手に取る機会が増える。あくまでも必要に迫られた実用的な物を読んで、文字列を読むことで何かを学ばなくてはいけない、という意識が根付いてしまっていた。なので、読むべきものは実用書が理想なのだ、という刷り込みが成立してしまっていたように思う。実際、読書リハビリを始めた当初は、心理学や医学系など、実用的な本を手に取ることが多かった。しかしそれらを読んでも、現実世界から離れられるわけでもなく、ただ頭が疲れてしまうような感じがしていた。必要な時に必要な実用書を読むことは当然大事なことであるし、しなくてはいけない。でも、余暇として本に触れ合う時には、そういう実用性や意味を求めすぎないことが大切なのでは?と最近は思っている。

②読んだことを覚えなくてはいけないという強迫観念に襲われる
①に付随することではあるが、実用的な本を読んでいる時には、集中力を切らして生半可な姿勢で向き合ってはいけないような気がしてくる。そして、「読んだことを覚えなくてはいけない」という強迫観念に追われるのである。試験勉強を行う上では、教科書の記載内容を理解して確実に暗記して、それをまた知識としていつでも引き出せるようにならなくてはいけない。しかし、それを全ての読書に対して求めるのはなんか違う。忘れてもいいのだ。なんとなく読み終わった後に感じることや考えることがあって、それが心の中で少し引っかかって。その経験だけでも十分良いのだ、と今は思えている。その感情を惹起したフレーズがなんだったのかを覚えておくために、ふせんを貼ったりノートに書き出したり、そういうのはアリだ。ただ、その時は、それが目的にならないように気をつける必要がある。

③単純に時間がない
これは、ありとあらゆる物事に対しての「出来ない」に対しての最大の言い訳だ。一日が24時間なのは、地球上に住む人たち全員に共通である。その中で「時間がない」というのは、優先順位が低いことに対して用いられると思う(本当に仕事などが忙しくて物理的に時間が無いこともあると思うけど、あくまでも普通の忙しさの日常生活の中での話)。実際、本をそこそこ読めるようになったわたしも、別に今が暇で暇で仕方ないというわけではないし、世の中には多忙な読書家の方々もたくさんいる。本を読んでインプットを増やすことに対することに重きを置いているか否かの違いなんだろう、と思う。

ざっくりと、こんなところだろうか。

様々なジャンルの本を読むことは、心を豊かにする。それは間違いない。でも、それが「読まなくてはならない」と強迫的になると、エネルギーの出費の方が多くなってしまうように思う。あくまでも自然体に、日々の生活の中に「本を読む」という行為が溶け込むことが理想的ではあるが、わたしはまだその域には達することが出来ていない。しかし、前よりは確実にかつての感覚を取り戻せてきている実感はあるから、このままもっと読書を生活の自然な在り方のひとつに据えられたらいいな、と思っている。

ではまた。メイさんでした。

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