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月よりも辿り着きたかった場所【映画『ファースト・マン』を観て】

映画『ブレット・トレイン』が公開されたこともあり、先日からブラッド・ピットの映画を立て続けに見続けていたところ、ちょうどいいタイミングで楽しいニュースが入ってきてくれました。

『セッション』『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督、最新作。
映画『バビロン』の予告編が解禁されました。

ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー、トビー・マグワイアと豪華なキャストが勢揃いしており、映像を見ている限りめちゃくちゃ煌びやか、豪華絢爛、トランペットが大音量で鳴り響く。
こりゃ金かけてんな〜〜というのがビンビン伝わってきます。

そして、個人的にチャゼル監督らしい、「単に賑やかハッピーな映画で終わらせんぞ」という意志を感じる、不穏な匂いが漂よう予告だな〜〜とも思ったり。

(マーゴット・ロビーの役とブラッド・ピットの役は絶対最悪な目に遭いそう)

アメリカでの公開は今年のクリスマスのようですが、日本での公開は「2023年」とだいぶざっくりした予定。
アメリカでの公開の後、なるべく早く日本でも見られると嬉しいですが、アカデミー賞の関連とかも考えるとアメリカでの公開から結構時間が空いてからの日本での公開になってしまうのかな?

なんにせよ、楽しみな映画が増えたことは私にとっては嬉しい限り。生きる糧です。

デイミアン・チャゼル監督に対する私の印象は、「シンプルでわかりやすいストーリーで、テンポ良く話を進めつつ、エンターテイメント性の高い映画」を作ってくれる監督といったもの。

『セッション』は偉大なジャズドラマーになるという夢を持った青年が鬼教官に扱かれながら“人とは違う道を辿り一流になる“とは何たるかを知る話だったし、『ラ・ラ・ランド』は男女が夢と恋の間で踠きながらお互いの人生を歩もうとする話だったし。

今回記事にさせていただく『ファースト・マン』は人類で初めて月に降り立った男の話。

あの「これは1人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」で有名なアームストロング船長の話です。

『セッション』や『ラ・ラ・ランド』は何度か鑑賞したことがあったんですが、『ファースト・マン』については全く見たことがなかったことに気づき、『バビロン』の予告公開をきっかけに配信で鑑賞したので、考察・感想を記事としてまとめておこうと思います。
(以下、ネタバレ注意です)

「宇宙」と「ホーム(家庭)」

冒頭、航空機であるx-15の実験飛行に主人公のニール・アームストロングが参加している場面から映画の幕が上がる。

ほとんど身動きのできない程の船内で、必死に航空機の操縦を試みるニール。

たった1人の操縦席。
無機質に響く管制室からの報告。
ニール演じるライアン・ゴズリングの顔ギリギリにまで近づいた超クローズアップのカメラと狭い船内に観客自身も乗ってるかのように思わせるカメラワーク。

息が詰まる程の臨場感。圧倒的な音の圧。
空の美しさ。ニールの息づかい。

「これは映画館で見た方が絶対よかったやつ…」と思わず後悔してしまった。

しかし、次の場面では唐突にニールの家族のエピソードが挿入される。

病院での検査に参加するニールの娘、カレン。
おそらく治療のための薬の副作用のために、小さな身体で必死に嘔吐する。
娘を抱きながら、子守唄を歌うニール。

「お月様を見るとお月様も私を見る」
「私を照らしてくれる光が愛する人を照らしますように」

ここで気づく。
この映画は人類で初めて月に降り立った男の話だ。

だけど、男は何のために月を目指したのだろう。

「宇宙への憧れ」か?
「人類未踏の世界への探究心」か?
「偉業を成し遂げたいというプライド」か?
はたまた、「祖国への愛国心や責任感」か?

この映画では、それだけではないのではないかという可能性を示す。

「宇宙」という壮大でマクロなものを目指す背景に「ホーム(家庭)」という極めてミクロで個人的なものがあったのではないかという可能性を示す。

冒頭の実験飛行のシーン。
彼は宇宙に何を見たのか。
娘の死に何を思い、宇宙へ向かう決意をしたのか。
映画の随所で月を見上げるたび、彼は何を思っていたのか。

ただ、「月へ降り立った男の伝記映画」だけでは終わらせない。

本作は観客にその偉業の「背景」にあったであろう、ニール・アームストロング個人の
「挫折」「犠牲」「喪失」、そして「再生」を観客にはっきりと提示して見せるのだ。

語らない主人公

しかし、主人公のニールは職場の人にはもちろん、妻や子供にさえ心を開かない。
弱音を吐かない。娘が死んだ時でさえ、部屋に1人籠ってやっと涙を流す。

表情もほとんど変わらない。大声で笑ったり、怒鳴り声をあげたりすることもない。
唯一、子供達と過ごしている一時や実験で成功した瞬間だけ笑顔を見せるが、それも一瞬。

ニールは自分のことを、自分の気持ちをほとんど語らないのだ。

だからこそ、正直鑑賞当初はニールに上手く感情移入することができなかった。

その一方で、手振れ込みのニールの表情を常に追うようなカメラワーク、ニールの顔ギリギリのカメラは、”語らない主人公”であるニールから「それでも観客の視点を離れさせない」という意味で非常に効果的だったと思う。

また、常に冷静沈着で、自分の心を平静に保つことができる能力が宇宙飛行士という職業において非常に大切であるということは、何となしに鑑賞前からわかっていたことではあったため、感情移入することはなくとも「そういう人間性を持っていなければ宇宙飛行士にはなれないのだ」と受け入れることができた。

しかし家族は、どう受け入れたのだろう。

娘の死後、すぐに仕事へ向かうニールに対し妻のジャネットは「いいわ」と言ってみせるが、「どうして何も語ってくれないのか」と思っただろう。

「夫は自分と同じように娘の死を悲しんでくれているのだろうか」
「悲しんでいるはずだ、きっと語らないだけで…」


NASAで宇宙という壮大なものを相手どり訓練に勤しむニールとは正反対に近所との交流というミクロな世界で生きるジャネット。

隣人のパットの夫であるエドはニールと同じ宇宙飛行士でありながら、子供達と一緒に遊び、娘を失った自分達を気遣い声をかけてくれるような人間性を持っている。

思うことは色々とあっただろう。

それでも、ジャネットは語らないニールに「大丈夫?」と声をかける。
宇宙の、仕事の話ばかりされたとしてもきちんと聞く。
仲間の死に言葉を失い黙り込んでしまっていたら、子供の世話から解放する。
仲間の死に娘の死を重ねてしまい、耐えきれず自分を置いて1人きりで帰ったとしても。
友人からの気遣いの言葉にも耳を貸さず、ただ月を見上げ続けていたとしても。
寂しさも、悲しみも、怒りもニールにぶつけない。

愛しているから。
夫の全てを理解できずとも、その心に寄り添いたいと、支えたいと願っているから。

また、映画で明確に示されている訳ではないが、ニール自身も「弱音を吐かない強さ」「語らない強さ」を自分のポリシーだと、誇りだと思っていたのではないかと思う。
前述したように、そういった人間性は宇宙飛行士という職業を為す上で必要な人間性であるからだ。

しかし、本作はそれだけでは終わらず、「強さ」の裏にあったであろうものまで感じさせる。

「弱音を吐かない強さ」を身につける一方で、ニールは「娘を亡くした苦しみをジャネットと互いに共有し合うこと」から逃げていた。
共有し合える程の強さが彼にはなかったから。
娘の死をうけいれているように見えていたが、実はジャネット以上に娘の死を受け入れることができずにいたから。
それを自覚することが怖かったから。


「語らない強さ」を身につける一方で、「明日死ぬかもしれない自分について子供達に語ること」から逃げていた。
語ることができる程の強さが彼にはなかったから。語ることで、子供達の反応により自分の心を乱されるのが怖かったから。

アポロ1号の実験の前。
夜道にて、船長のエドはニールに愛おしそうに語る。
「息子に司令船について質問された」
「息子が興味を持ってくれて嬉しい」
「息子の視野が広がっていく」
「自分に自信が持てるようになるんだ」

対するジェミニ8号の実験の際、地球にあるニールの家では、長男が無言でアメリカ国旗を掲げ、ジャネットは様子を見守る報道のカメラに懸命に微笑みながらも不安そうな顔で回線をラジオで聴き、ニールの安否を祈っている。

そして、おそらく“何も知らない“次男は、いたずら心故にジャネットからラジオを奪ってしまう。
「大事だから返しなさい」悲痛な声でジャネットが次男を叱る。
その姿をカメラが無慈悲に撮影する。

「父親が今この瞬間死ぬ可能性のある実験に望んでいる」
そんなことは言えないのに。

犠牲になるべき人間、語るべきこと

ソ連に先を越されていく焦り。議員からの重圧。国民達の批判の声は高まっていく。
精一杯研究し、訓練し、努力し、計画を進めているはずなのに。

自分より先に飛んだ仲間が死んでいく。
自分より「いい人間」であったはずの仲間が死んでいく。

特にエドは、コミュニケーション能力も高く、ユーモアもあり、自分について語らないニールのことも、そのせいで苦しみを1人で抱え込んでしまうジャネットのことも気遣う事のできる、ニール以上に理想的な人物であったが、訓練中の事故で一瞬のうちに命を落としてしまう。

確かな理由もないまま仲間が死んでいく。
自分は?偉大な功績の「犠牲」になるべき人間なのか?

人類の希望の象徴であるはずのロケットがまるで棺桶のように見えてくる。
どんどん自分自身から心が離れていく。自分が何を目指しているのか。
何のために生きているのか、わからなくなっていく。

そして、アポロ11号の発射前。
家を出発する直前になっても、子供達に何も語ろうとしないニール。

「話をしてほしい」と今まで何度も思ってきたであろう願いを口にするジャネットに
「何を言えばいいんだ?」なんて、無責任とも思える言葉を口にする。

そんなニールにジャネットは初めて怒りをぶつける。
「何を言いたいの?」「行くのはあなたよ」
「私からは言えない」「出発まで父親が無意味な荷造りをしていたなんて」
「帰れない時の心構えをさせて」
「あなたが話すのよ、自分で」

子供達に自分自身が話したいことを、自分自身の言葉でニールに語らせる。

ニールが子供達を席につかせ、語った後、長男は言う。
「戻って来られる?」
「(曖昧なニールに対し)でも戻って来られないかも」
この時の長男の目、悲しみと寂しさと、憎しみと怒りが混ざり合った目。
「どうして自分から言ってくれないの」
「自分達を残して死ぬかもしれないのに」
「その先のことをどう思っているの」

そんな言葉が聴こえてくるような目でニールを見つめるのだ。

月よりも辿り着きたかった場所

ニールがなぜ月を目指したのか。
月を見上げるたびに何を思っていたのか。
映画で明確に答えが語られることはない。
そもそも答えがあるほど、単純な話ではないのかもしれない。

最初に述べた通り、本作は「人類で初めて月に降り立った男の話」だ。
しかし私は、本作が「“遺された者“が“遺していった者の死“をどう受け入れるかという話」でもあると解釈している。

やっとの思いで辿り着いた月には当然何もない。

しかし、あの場所でやっとニールは娘の死を、“遺していった者の死”をやっと受け入れることができたのではないかと思うし、
娘の死後自分がやってきたこと・生きてきたことが間違いではなかったと、やっと思うことができたのではないかと思う。


そして、それは“遺された者“になる可能性のあったジャネットや子供達と向き合うという過程を踏んだからこそ、なし得たのではないか。

地球に戻ってきた後、隔離のためのガラス越しにジャネットと手を合わせるニール。

月よりも辿り着きたかった場所、遺された者として生きていく自分を受け入れることができる場所を、やっと見つけたのだと思う。

最後に

デイミアン・チャゼル監督の作品をこれまで3作品見てきての感想ですが、題材は「ドラマー」「女優・ジャズピアニスト」「宇宙飛行士」と全く違うものを扱いながらも、どれも「ある目標や目的を達成するまでに、どれだけの犠牲を払わなくてはいけないのか」ということを作品のテーマの1つにしている点では共通しているよな〜と思いました。

それゆえに、「全く別のテーマの作品や、もっと多様なテーマが入り混じった複雑な作品を見てみたい」ともほんの少しだけ思ったり。(今作も「犠牲」というテーマをかなり強く反映させていた印象だったので)

『バビロン』も現段階の印象だと「映画業界で夢を叶えようとするにはどれだけの犠牲…」という話なのかな…と今作鑑賞後邪推してしまったので、この予想を裏切ってくれる作品だといいな〜〜と願っております。



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