仮面の力(12) 10 ギリシア演劇の仮面は発展していく

 10 ギリシア演劇の仮面は発展していく

 このギリシア劇と仮面は、この後ギリシア時代の末裔たちが合理主義と自然科学的手法で、世界を席巻することとなる西洋人の、仮面として(仮面はキリスト教会には迫害されるが)変貌していく。
 医師の表示を明確にすることが常に要求される西洋で、会話はコミュニケーションの手段として絶対不可欠のものであった。(*39) かの名高いギリシア哲学も、ソクラテスに代表されるように、対話によって議論を闘わせて、真理を発見してく方法をとっている。
 よって、ギリシア式の全仮面はまず、会話の機能を持たせるために口の周りが大きく切り取られて開けられた。切り取られるだけではなく、声がより遠くに届くようにメガホン的な形に工夫されていく。次に意思の表示としての「より明確な動作」のために、視野を確保する眼穴が目の周囲をくり抜くように大きく作られる。重い仮面には、後頭部がだんだん省略され、ついには下顎がすべて取り外されて半仮面となっていく。16世紀ヴェネツィアに成立した、即興喜劇コンメディア・デルラルテの原型へと継承されたと考えられている。野村万之丞は、演技者の目が、目の周囲をくり貫いた仮面をつけることによって強調され、「目には口ほどにものをいう」というのが、西洋の演劇が到達した位置ではないだろうかといっている。(*40)
 コンメディア・デルラルテのような古典演劇にとって、仮面は大事な役割をもっていて、役者の付けている仮面を見れば、いったい誰なのか、どんな性格の人物なのかが判るようになっていた。そして仮面の表情と、その下の役者の表情が一致する場合が多い。ただし役者の力量不足から、役者は笑っているのに仮面は少しも笑わないといった乖離も生じることはある。これはコンメディア・デルラルテの仮面が、歴史の中で培われてきた動き(つまり型)をもっていなく、役者が仮面からインスパイアされ、仮面に動きを規定されて出てきた動き、つまりその役者だけの仮面の動きになるからだと考えられる。
 この流れは、遠く二千年も隔たった19世紀の終わり頃、ロシアの劇作家チェーホフとも深い結びつきのあった「モスクワ芸術座」の、スタニスラフスキーによる近代的な演技創造の体系へ、源流として流れ込むことになる。(*41)
 スタニスラフスキーは、「無理強いをしないで」「行動を創り創り出す」ことを「〈役〉に生きる」の原理だと主張している。それは戯曲の世界に俳優が生活することである。俳優は役を通して自己の演技術を披露するのではない。役の「仮面」を被ることはないが、俳優は役の全人格を体現する、役自身でなくてはならないのである。もちろん、忘我の状態で、対象と同化するような演技を考えていたのではなく、心理的な根拠に基づき「〈役〉に生きる」科学的方法を生み出したのである。
 原始宗教の儀式で、人びとが仮面を被り、被面者は「仮面」と同化し、自らが「仮面」を表す対象となる。そこでは、被面者の存在は消え、ひたすら「仮面」のみが存在する。この被面者の行為に、〈役〉に生きるというのは実は似ていて、人格という目に見えない「仮面」を被るということなのではないだろうか。
 対して、東洋の能、狂言をはじめとする眼と口の小さな仮面は、仮面と役者の表情が必ずしも一致するとは限らないと野村は言っている。(*42) 理由は、演者はより内面に集中し、型の中に感情を追随させるためであるという。なぜ仮面の眼や口を奪う西洋のような発想が出なかったのか。東洋の神は森羅万象全てに宿り、全てが神になりうる。そして神と人間は絶対的契約で結ばれているわけではなく、供物を供え食してもらう「生きているもの」として認識される。だからその神に成り代わる仮面も、生きているものとしての扱いを受けることになるのである。眼や口を奪ってしまうわけにはいかない。
 眼穴も小さく顔全体を覆うものでは、閉鎖感と同時により仮面のキャラクターに変身しようとする集中も高まる。仮面は一個で存在できる。こういった仮面は日常性を遮断し、そこに特殊性を生みだす。詩的で夢想的な戯曲を演じるにはうってつけとなる。また、一つの相に「顔」を固定することもできる。誇張的な顔の表現を嫌う能では、素顔で演じるときも、素面といい、面を被っているかのように表情を動かさずに演じる。徳永哲はこうまとめている。(*43) 「仮面」を被るということは、被面者を完全に受け身の状態にし、心身共に完全に可塑性の状態にする。被面者の心身はどんな形でも帯び、どんなイメージを印象つけられても、それをそのまま受け入れ、どんな目的が課せられても、課せられたままこなすことが可能である。と、そして、「仮面」は「超自然が顕現するための道具となり、生命のある存在との間をつなぐ最終的な鎖」となるといっている。詩人は、自己の瞑想的世界を、俳優に「仮面」を着用させることによって、統一された一つの宇宙的世界の中に具現化することができる。「役に生きる」とは違う方向である。戯曲を生かすことを目的としている。しっかりと「仮面」によって固定され、孤立された表象は、闘争をなして対立をするのではない劇的葛藤の中で、互いに克服されることなく、互いの優位性を絶えず交替させるだけである。仮面は、日常とはかけ離れた想像的世界を創りだす重要な役割を担う。
 また、「能面のように無表情だ」という意味で「能面のような顔」という例えがあるが、能面は決して無表情ではない。逆に面としては驚くほど多表情であるといえるだろう。(*44) 「照る」「曇る」という言い方が能狂言面にはあり、「照る」は仮面を上向かせることによって仮面に喜びの表情が表現されることをいい、「曇る」とは仮面をややうつむかせることで悲しみが表現されることをいう。素晴らしい仮面ほど、その中に様々な表現を秘めている。一見まったく表情のない仮面に見えてしまう仮面だが、だからこそ、つける者によって面の表情を変えることができるのである。仮面をただ写実主義の立場でのみとらえてはいけない。仮面のもつ深層のリアリティを見るべきである。




*39 野村万之丞  『心を映す仮面たちの世界』 檜書店 1996年

*40 註39に同じ

*41 徳永哲   「ギリシア劇の仮面から現代の劇の仮面へ」
         『笹間選書 文学における仮面』 笹間書院 1994年

*42 註39に同じ

*43 註41に同じ

*44 註39に同じ

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