仮面の力(8) 6 仮面と通過儀礼

  6 仮面と通過儀礼

 仮面は、死者や先祖もあらわす。祖先が現れるのは、アフリカやメラネシア、アジア各国に見られる葬列儀式や、通過儀礼の場である。葬列儀礼は、墓地から死者の霊を体現した仮面が登場し、それと生者とが交歓することでその死者の霊を慰めて祖先の国へ送り届ける儀式である。(*18) 日本のお盆の行事には意味は似ているだろう。通過儀礼とは、すべての民族、文化が持っている伝統的な儀礼(これも日本でいうと、出生祝、七歳祝、成人式、結婚式、出産祝、家督の相続、厄年祝、葬送、年忌・供養など)で、特定の日常生活とは隔離した場所で特定の人びとが集まり、時間をたっぷりかけて、日数をついやして行われる。通過儀礼とは、どれも古い所属集団を脱けて、新しい所属団体に加入するという性格を持っている。(*19) そのなかでも特にイニシエーション(加入儀礼)は成人式として重要である。少年たちを一人前の男性として生まれ変わらせるために、祖先霊やそして森の精霊などを体現した仮面が教育や世話に当たる。
 イニシエーションは、古くは縄文時代にも存在していた証拠がある。(*20) 抜歯の習慣があったのだ。形式を分析すると、成人、婚姻、葬送の場で歯を抜いたらしいということである。一人前の大人になるということは、こういった痛みに耐えなければ他人に認めてもらえず、その先の人生も所詮、耐えて生きていけるものではないよということだろうか。
 また、イニシエーションというとき、宗教的な観点から見ると、特定の秘技集団、講集団への加入のための儀式、および神秘的召命によって呪医やシャマンになるための儀式も含まれる。A・ヘネップによると、通過は同質の生の連続をただ通過するのではない。むしろそれは、それぞれの節目において、象徴的な死と再生を通して脱皮していく働きを持っているという。社会および個人の魂を恒久的に生産し、再生産することを目的としていて、社会集団の生命を鼓舞し、高揚させるダイナミックな力を持っている。(*21)
 現在でも、この祖先崇拝、秘密結社の基づく仮面を持ち、仮面とともに生きている人びとがいる。福本繁樹の紹介する、パプア・ニューギニアの北部を東へ向かって流れるセピック河中流の、沿岸にあたるイアトモイ族の村、コロゴの人たちもその生活様式で暮らしている。(*22) 共和国パプワ・ニューギニアは南太平洋のメラネシアに位置している。メラネシアには仮面を持つ人びとが他にもたくさんいて、地域によって独自の様式を持ち、幻想的で、ダイナミックな造形の多彩な仮面をたくさん持っている。世界中の博物館にコレクションされているくらいである。もっとも、同じ南太平洋地域でも仮面を持っているのは南西部のメラネシアだけで、ポリネシアやミクロネシアでは、稀な場合をのぞいて、顔につける仮面はつくられなかったそうである。 
 ある日福本はコロゴ村を訪ねる。村全体が厳粛な雰囲気に包まれ静まり返っていた。《ワク・デンバ》ワニの儀式と呼ばれる大切な儀式が精霊堂の中でおこなわれているのである。この儀式の主な行事は、成人式を受ける少年の皮膚に、無数の傷をつけて血を流し、全身に鱗のように見える瘢痕文身をほどこすという凄惨なもので、その瘢痕文身は一人前の大人のしるしとなる。
 精霊堂は村の中央の祭儀用広場に建っている。まわりには新たに高い柵がはりめぐらされ、異様な音が「ブゥゥゥー、ヒュー、ヒュー、ウォォォー」と時折中から響くように聞こえてくる。この音は、この地方の独特のうなり木という気鳴楽器の一種で、まるで猛獣の咆哮のように聞こえる。ここの地域では、ワニの鳴き声だと信じられている。うなり木は、ニューギニア各地でタブーの楽器である。楽器の正体を女性や子供が知ることは厳しく禁じられている。楽器の秘密を知ってしまった女性が殺されたという伝説が、各地に伝えられている。
 儀式のおこなわれている薄暗い精霊堂の中には、神像や大太鼓などが安置されている。五色に参加する男たちが集まっている。そして、丸木舟を逆さに並べたものをベッド代わりに、12人の全裸の少年たちがあちこちに横たわっている。全身に無数の切り傷を負った彼らは、動くことも話すことも苦痛なようで、うつむいたまま死んだように身動き一つしない。ときおり、うなり木や竹笛が鳴らされ、荘厳な音色が響き渡る。おもむろに貝や羽毛などの装身具で着飾った長老が、棒を手にあらわれ、少年たちは否応なく従って一列となり、足踏みをしながらかけ声に答えて踊る。きびきびと行動しないと大人たちに怒鳴り付けられ、背中の傷口を棒で打たれる。
 この儀式の構造は、母親の血を流して象徴的に死に、瘢痕文身をもって精霊堂より再生する。あるいは、ワニに飲み込まれた少年がワニの体内から吐き出され成人男性として再生するというものだ。だから、瘢痕文身はワニの鱗や、ワニに呑まれたときの歯型の痕だとも考えられる。成人式のモチーフは「死と再生」である。セピック河流域ではワニを崇拝する。神話にも、大地の父としてしばしば登場する、創生神話のストーリーは、考古学調査によって科学的にも正しいと証明されているように、歴史的事実にセピック河流域地方が海に沈んでいた頃のことを思い起こさせる内容である。海から広大な陸地が現れたという、壮大で神秘的な地形の変動が語られているのだ。また、この地域は毎年降水期の河川の氾濫に危機的な被害を受ける。しかしそれが、一方で肥沃な田畑をもたらしてくれる。人々は、大自然の脅威と恩恵に対して畏敬の念を込めているのである。だから、ワニ、あるいはサメやウミガメなどの水中に棲む生き物や精霊への崇拝へとなったのであろう。
 精霊堂の中で、《カワ》とよばれる神聖なふんどしを初めてしめることを少年は許される。仮面をめぐる様々な神話、儀式、掟、仮面や楽器などの秘密等の詳細が教えられる。あらゆる仮面がこの秘密結社に伝えられ、成人男子であれば、誰もが自分の先祖に係わる仮面や神像を持っている。瘢痕文身は秘密結社の構成員の証である。これによって精霊堂への出入りが初めて許され、一人前の成人男子として結婚することや、村の会議に参加して発言できるようになる。また文身を持つ者は、持たない者に対して、相手が年配であろうと、威厳を持って子供よばわりして対応する。
 少年たちが成人式を受ける精霊堂には固有の名前が付いている。そして、建物全体がひとりの女性もしくは子宮としての構造をとっている。 破風には大きな女性の顔があり、両端に高く反り上がった棟の先端に取りつける棟飾りや、柱の彫刻にも女性の姿がある。棟を高床式に持ち上げている棟束の下部に、足を前に突き出し、大きく股を広げた女性像がある。まるで出産を暗示しているようで、生殖器まで克明に彫刻されている。神話に出てくるワニと結ばれた女性像だと考えられるという。内部装飾にも女性の顔がたくさんある。少年たちは周りを神話の女性像に見守られつつ、成年男子として再生するしくみになっているのである。精霊堂は他にも彫刻や、絵画のモチーフなどで、村の歴史、神話、伝説、信仰、儀式、タブー、親族関係、身分制度などのあらゆる制度が集約されている。村の生命そのものといえるだろう。祖先霊の像や精霊の姿が巨木の柱に彫られたり、天井一面に描かれる。屋根、破風、棟、梁、天井、柱、壁と、あらゆる部分が念入りに彫刻、色彩され、そのさまは絢爛、華麗、幻想、奇怪で圧倒される。表現されるものは神や精霊の姿であり、精霊堂のなかは顔、顔、顔にあふれている。
 仮面の表現とはつまり、顔の表現だともいえる。その顔は神を現わす。精霊以外でも、あらゆる生活の道具に精霊の姿が表現されている。カヌーの舳先の《サヴィ》とよばれる仮面は、戦士が戦闘にカヌーで出かけ、首狩りに成功して、敵の首をカヌーにかかげて帰るとき、とりつける仮面。カヌーを漕ぐ櫂。民家の台所道具にも人間、ブタ、ワニ、ニワトリ、オウムなどの顔がついている。木製ボウル、椰子柄容器や土器の把手や裏側。ナイフ、斧、スプーン、ひしゃく、たたき棒の柄の先、椅子、机……などである。丸ごと一軒の家全体が、精霊の全身と考えられ、その中で生活するしくみにもなっている。古代のマルタ人たちと同じ考えを持っているようだ。強い力に守られて生きているのである。
 《サムバン》とは股鉤のついた仮面である。天井からつるして、ネズミよけの円板をとりつけ、食料などを入れた袋をかけて保存するという実用のためのものだ。精霊堂には、《サムバン》は首狩りの戦利品である頭蓋骨を展示するための氏族の守護霊としてある。これを、指名された男性が一定時間世話をする。仮面を花で飾り、供物を股鉤につりさげる。頭蓋彫刻もそばに置く。歌と音楽で祈りをこめるとその男はだんだんと忘我の状態となり、ついには憑依状態となって、仮面がその男にのりうつって話をはじめ、託宣をのべるという。仮面を顔には直接つけないが、人間と仮面があらわす超越的な存在との合一が実現されるというわけなのである。
 また、マプリク山地にはヤムイモの収穫祭のコンクールのとき、ヤムイモに《クムブ》という仮面をつける。もっとも巨大な品種には《マンブタブ》という仮面をつけ、羽毛や色彩で飾りもする。それは、ヤムイモを精霊そのものであると考えることになる。そしてそのヤムイモを食べる。食べるとは、精霊と作物と人間の依存関係が確立されると解釈できる。食べた精霊は、やがて排泄され再び作物の糧となるために自然に還っていくのだ。人間も自然の一部である。無駄なものは何もない。
 さて、成人式のとき式をうける少年に試練を与える仮面は《アバン》という。上下二つの顔がある籐製網細工の仮面衣装で、中に男性がすっぽり入り、手足だけ出して踊る。試練を与える仮面という理由から、子供たちの恐怖の対象となっている。駄々をこねて親のいうことをきかなかったりすると、両親は相談して《アバン》に頼む。《アバン》は棒を持ってやって来て、子供をたたいて脅す。まるで日本のナマハゲの場面のようではないか。恐ろしい仮面には、不安、怖いものがあったとき、もっと恐く強いものになって、それを追い出してしまおうとする目的がある。
 《アバン》は《マイ》の仲間で、《マイ》は70〜80㎝程度の大きさがあり、顔にはつけず、よって両目部分の孔はない。全身を覆う被り物《サヴァ》の顔部分に仮面がつけられる。この《マイ・サヴァ》は男性がなかに入る。《マイ》は独特の木彫仮面で、長くのびた鼻が特徴である。粘土、貝、牙、羽毛などで装飾され、顔料で彩色もされている。それぞれの村が数種から十数種の氏族(クラン)に別れているが、すべてに個別の《マイ》や《アバン》が伝わっている。それぞれの仮面に固有の名前があり、人間のような素性や人格がある。《マイ》は家屋新築のときに《マイ・バング》という祭祀の中心となる。新しい家で歌い踊る。仮面によって人びとは幸せになっている。
 セピック河地方の人たちにとって、仮面のいでたちは、扮装(ニセモノ)ではなく、具現(ホンモノ)なのである。そして、大自然の精霊と合体の手段であるのだ。そこには、やはり人智のおよばない、畏しい力を合体によって得てコントロールしたいと願う気持ちが、根底にあるように思える。時に試練を与えたり、供物を必要とするが、替わりにその呪力で村を守っている。村人がそう信じる限り、仮面はその力を持ち得る。仮面のもたされている超自然的な力は、地上的=現実的世界とは異なる世界に属してはいる。けれども、だからといって、非現実的なのではない。むしろ、完全に”現実的”なのである。




*18 春成秀爾  「日本先史の仮面」『仮面−そのパワーとメッセージ』
        里山出版 2002年

*19 中村雄二郎 「通過儀礼」『術語集−気になる言葉−』
        岩波新書 1984年

*20 註18に同じ

*21 註19に同じ

*22 福本繁樹  「大自然の超越的な存在と合一−パプア・ニューギニア セ        ピック河流域の仮面文化」『仮面ーそのパワーとメッセー         ジ』
        里山出版 2002年

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