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第3回:背伸びなんかしなくていい

日常で、あるいは創作物で、「そんなことばは私の辞書にはない」と都合のいいように使われるフレーズがあるが、実際に「自分の辞書」というものは、ある。
(なお、この記事を投稿するために画像をお借りしようと「辞書」と検索したところ、このフレーズを使った画像があった。)
生き字引、と言われるひとであっても、なんでもかんでも知っているわけではない。

だから、「自分の辞書」にないことばに出逢うことはよくある。
私の場合は、まだ職業のことなんて考えていなかったときに、読書で見つけた知らない単語を紙の辞書で調べたり、それがいい単語だなと思ったときはメモしておいたりしていた。それはきっと、今の「私の辞書」の一部、なのだろう。
ここで重要なのは、「私の辞書」の一部、というところだと思う。
当然だけれども、生まれたばかりの赤子はことばを知らない。成長していくうちに、使えることばが増えてゆく。その使えることばとは、自分で理解したり、体得したりしたものに限定される。

たとえば、小学生に「『陳謝』というのは、普段のごめんなさいという意味の『謝る』とは違って、事情や経緯を説明したうえで謝ることなんだよ」と説明して、小学生はその定義自体ができたとしよう。その子の辞書には、一時的に「陳謝」が掲載される。でも、きっとそれは消えてゆく。なぜなら、使う場面がないからだ。
その子が大きくなって、たとえば社会人になって、陳謝する必要があるかもしれない。そのとき、その子が教わったことを思いだすかどうかはわからないけれど(めちゃくちゃ記憶力のいい子なら覚えているかもしれない)、実際に陳謝する場面になって、『陳謝』は「その子の辞書」に掲載されるし、ずっと消えにくくなる。後輩たちにうまく説明することができるようにもなるかもしれない。

「自分の辞書」にないことばは、たくさんある。
そして、「自分の辞書」にことばは簡単には残ってくれない。
テスト前に丸暗記した単語を忘れてしまうのと同じだ。
けれど「自分の辞書」は、丸暗記した「自分の記憶」より、もっと厄介なところがある。それは、自分が使いこなせないと意味がない、というところにある。辞書の引きかたを知らないひとに紙の辞書をあげても、それは有効活用されない。

「自分の辞書」は、自分で見聞きしたことや、興味を持って調べたことから、少しずつ分厚くなっていく。
だからこそ、自分のものになる。
けれど、現実はそこそこ残酷で、どんどん新しいことばが増えていく。仕事をするとなると、まずそういったものを先に辞書に入れなければならない。
私が新卒時代には「なるはや」くらいだったビジネス用語も、もうわけがわからないほど増えているし、DXだのSaasだのSDGsだのアルファベットもどんどん増える。全部は無理でも、必要なことにはついていかなければ、組織に所属していないフリーランスでもやっていけない。
そうすると、自然に見聞きすることや、興味を持って調べる時間が減ってくる。「自分の辞書」のはずが、「だれかのものに似た辞書」になりそうで不安にもなる。

それでも、ものごとの受け取りかたや、印象に残ることは、ひとによって違う。
「自分の辞書」は、ちゃんと自分のなかにある。
この表現だと稚拙な気がする、と思って、類語をネット検索することは容易い。けれども、そうやって拾ってきた単語は、文章のなかで浮いてしまうのだ。使いこなせないことばひとつで、文章の温度が変わってしまう。その部分だけ。

だから、背伸びなんかしなくていい。
見識を広める努力は必要だけれど、そうやって作りあげた「自分の辞書」を信じればいい。そうして、少しずつ厚みを増してゆけばいい。
背伸びせずに書いた文章が、そのひとの書いた文章なのだから。


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