シェリング『人間的自由の本質』覚書1-4

『人間的自由の本質』は、西谷啓治訳、岩波文庫を使用した。

1.シェリングの体系性

「…いかなる概念も個別的には規定され得ず、それと全体との関連が指示されて初めて、その概念にもまた最後の学的な完成が与えられる…。」(p.20)

例えるならば、「身長170cmは背が高いのか低いのか」という問いについて考えれば、周りがすべて一寸法師ばかりの国にいれば背は高いが、壁外にいて周りを見れば巨人ばかりという進撃の巨人的世界では背が低い。「背が高い」という概念は周囲の状況を知らない限りは単独では得られない。

つまり、ある概念は単独では理解できない。いかなる概念も体系内に位置づけなければ理解され得ない。

自由なる概念も然り。いま私が飲みたい放題にビールが飲めるから私は自由だ、というのではない。そうでなく、私のいる世界はどういったものであり、この世界には私以外にどういったものたちがおり、それらのものと私はどんな関係を結んでいるのか、等々を理解しない限り、私は自分に自由があるのかどうかを知ることはできない。

哲学には断片好きも体系好きもいるが、シェリングは体系好きの立場から自由を論じる。

カントの定言命法は、我々が無条件的に義務を為せば我々は自由だとする。カントの自由は体系内における自由ではなく、ここにシェリングは不満を感じたと考えられる。

仮言命法は因果を連結するので断片的でなく、その思考を過去に進めればついに第一原因(アリストテレス)に至り、未来に足を伸ばせばやがて世界の完成が見える(ライプニッツの予定調和説のように)ので、どちらにせよ、理想的には世界を構築するに到るので、仮言命法は体系性を秘めると言える。定言命法は無条件的なので、その本性上断片的だ。あるいは、誰しも他者を目的として扱うようにすれば目的の王国が成るとするかもしれないが、そう考えれば条件的で王国という未来に到るのだが、それでも人間界の王国止まりで自然界全体には波及し得ない。カントの自由は体系性を容認しない。

2.神と実存

「石」という概念があるからといって石が現に存在するわけではない。「存在する」という事態があるからといって石が存在するとは限らない。「石が存在する」という事態が成立するためには「石」と「存在する」との双方が要請される。

「石」なる概念はあらゆる石を含み、あらゆる石にとっての不可欠の本質を含む。「石」なる概念は石の本質だ。石にとって偶然的性質はどうでもよい。「丸い」「四角い」「軽い」「重い」等々の性質は石の本質を構成しない。これらの性質はあってもなくても構わない。然るに「岩より小さくて砂より大きいこと」「鉱物質のかたまりであること」は石において不可欠の性質であり、両者がなければ石にはならない。「石が存在する」という事態が成り立っているとしたら、そのものは丸くても四角であっても、または軽くても重くても構わないが、必ずや岩より小さく砂より大きくあらねばならず、同時に必ずや鉱物質のかたまりでなければならない。

換言すれば、如何なる石も石として呼ばれるためには石「である」こと、すなわち石なるものを構成する「本質」を有さねばならない。

これに対して、「存在する」は「本質」を欠いた単なる「存在」となる(レヴィナスのイリアなる概念に近そうだ)。本質が有ろうと無かろうと、ある物が有ればそれで存在者としての要件を満たすからだ。

本質とは「である」だが、それに対して存在とは「がある」となる。そして「石が存在する」という場合に、主語の「石」は石たるものの本質を構成し、述語の「存在する」は文字通り端的なる存在を表す。

「石が存在する」という文として考えれば、1)「石」なる主語だけでは「石が存在する」ことは表し得ず、「存在する」という述語だけでもやはり「石が存在する」ことを意味するわけではない。その意味では、「石」と「存在する」とは互いに独立している。さらに、2)「石が存在する」という事態が成立するためには、「石」なる主語も「存在する」という述語も共に不可欠であり、概念上は互いが互いに依存することになる。つまり、1)2)より、「石が存在する」という意味が成立する場合において、「石」と「存在する」とは互いに独立するものでありながら、互いに互いを要請することになる。

「石が存在する」という事態は「本質+存在」という形で表現できる。そして本質と存在は互いに独立しながらも互いに依存している。そしてこの「存在」がシェリングにおいては「実存」とされる。

シェリングは『人間的自由の本質』(西谷啓治訳、岩波文庫p.59)で言う、1)「神の以前又は以外には何ものもないのであるから、神はその実存の根底を自己自身のうちに有しておらねばならぬ」と。また2)「神は自己のうちに自己の実存の内面的根底を含み、この根底はその限りにおいて実存するものとしての神に先行する。が、同様にまた、神は根底の先者である。というのは、神が現勢的に実存しなかったならば、根底は根底としても有り得ないだろうからである」(同p.60)と。

1)を私なりに言い換えると、次のようになる。a)「神は存在するが、「神」と「存在する」は異なるものであり、神以外には何も存在しないので(スピノザ的汎神論の継承)、「存在する」は神とは異なりながらも神の内に含まれる」と。

2)は次のようになる。b)「神が存在する」という事態が成立するためには、「神」と「存在する」とは概念上は互いに異なるものながらも互いを必要とする、と。そして「神」と「存在する」の両者においては、前者は「本質」を代弁し、後者は単に「存在」を表し、のみならず後にこれは「実存」となる、と。

私の考えに即して言えば、シェリングは神と存在を切り分け、神は存在を含みながらも存在は神とは異なるものであるとする。そしてこの存在に悪は由来する。この着想は「すべて神なり」として悪の居場所を容認しないスピノザ説を、形而上学的に表現された原罪説でシェリングが反論する図式だとも言える。因みに、サルトルは神を否み、ただ本質を欠く存在のみが存在するとして、これを実存とする。

「神自身は、存在し得んがためには或る根底を要」するとシェリングは言う(p.89)が、これもまた神と存在=根拠=実存の相互依存を指す。

3.神と根底

万物は神に内在するのではない。内在は神による「万物の死せる包含」(p.59)であり、然るに万物は生ける万物なのだから。万物は内在するのでなく生成する。しかし生成は神の内に起こるのではない、何故なら万物は神とは無限に異なるからだ。万物は神から分かたれているので、神と異なる根底の内に生成するが、何ものも神の外にはあり得ぬ。故に、「万物はその根底を、神自身のうちにおいて神自身でないものに、すなわち神の実存の根底であるものに、有する」(p.61)のだ。「それは永遠なる一者が自己自身を産まんとして感ずる憧憬である」(p.61)。

神は秩序だが実存は無秩序だ。神は実存において秩序を憧憬し、実存から生成したものを秩序へと至らしめ、それが現行秩序たる自然界となった。神が実存において憧憬するということは神が意志するということだが、いまだ秩序を欠くので悟性なく意志するのだ。やがて生成されたものは秩序を獲得して悟性ある意志となる。悟性ある意志が現行秩序たる自然界だ。

シェリングは「ひとり神のみがーー神そのもの、実存する神がーー純なる光のうちに住している。何となれば、神のみが自己自身から存在するからである」(p.62)とする。私なりに言い換えれば次の通りだ。

神は自足的完全体なので、何も憧憬せず生成させず発展させない。然るに万物は意志せられ生成せられ発展せられた。しかも万物は不完全かつ無常であるので神とは異なる。万物は神の内にあって神ならざる根底から生じたので不完全だ。しかし根底は神の内にあって神を憧憬するので、根底から生じた万物も憧憬するところの神を目指し、故に秩序と悟性を獲得するに到る。

神は自らの内部に神ならざる根底を有する。神は完全だが、根底は神でないので不完全であり、かつ神の内にあるので完全へと動機付けられる。神は一義的だが、根底は両義的だ。神は変わらず完全のままでいるが、根底から生じたものは、根底の性格を受け継いで、不完全ながら完全へと動機付けられている。この動機付けが憧憬であり、故に根底にあっては盲目な意志も生成発展して悟性ある意志となり(盲目は不完全であって悟性は完全だから)、無秩序は秩序を獲得する。

4.精神の誕生

万物は根底から発現した被造物であり、神から独立した原理を有する。この原理が光に変貌すると、人間の内部に精神が立ち現れる。

どのように立ち現れるかと言えば、永遠なる精神たる神は統一すなわち言葉を自然のうちへ発言する。発言された言葉は光と闇(母音と子音)の統一のうちにのみ存する。万物に両原理があるが、根底に由来して欠陥があるので階調が不完全だ。人間において始めて十分に発言され、発言された言葉のうちに精神すなわち神が自らを顕示するのだ(p.68)。

私なりに言い換える。根底から万物が生じる。神はロゴスを万物にもたらす。万物は根底に由来するので暗く、同時に神から付与されたロゴスに動機付けられるので明るい。故に万物には明暗両原理があるが、根底に由来する欠陥が大きく、神の顕示は不十分だ。しかし人間にはロゴスが十分に現れ、神の顕示も十全となる。

人間以外の生物においては、明暗両原理は霊魂により、かろうじて統一されている。人間において両原理が生き生きと統一される時、霊魂は精神となり、精神は神の内にある。人間においては統一は裂けることがあるが、神においては統一は裂けることはない(p.69-p.70)。

人間は自然の根底から派生した暗い我性だが、神に動機付けられて明るい原理でもあり、明暗両原理の統一たる精神だ。暗いので被造物的であり、かつ明るくもあるので超被造物的でもある。自然の内にある普遍的意志の道具でなく、自然の上にかつ外にあって自由だ。「我性は、精神であることによって、両原理から自由」(p.70)なのだ。

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