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ピュタゴラス学派の「奇数+偶数=一」

タレスは、万物の不生不滅にして出発点かつ回帰点たる元素は水である、と考えた。これが何を意味するのかと言えば、元素たる水に水ならざる何らかの物Xが加わって、例えば土などの物になることであり、そして土から水ならざる物Xが取り除かれて、また水に回帰する、ということである。(この解釈、書き終わったいまになって間違いに気づいたのであるが、後程どこかで訂正しよう。では、どこが間違いであろうか?)

ところで、水と水ならざる物Xとが、一時的なりとも結合していたのだとしたら、水と水ならざる物Xとは調和していたことになる。また水は不生不滅であるということから無限者であると言えそうであり、水ならざる物Xは滅ぶので限定者であると言えそうである。

タレス哲学をこのように解釈するとしたら、その構造はピロラオスの構造と同型であることがわかる。

秩序世界(宇宙)のうちにある自然万有は、無限者(限定を受けていないもの)と限定者(限定を加えるもの)から調和的に組み立てられたのだ、全体としての宇宙(自然万有)も、その中にあるいっさいのものも。(『ソクラテス以前の哲学者』(224頁、ピロラオス 断片1 廣川洋一)

ピロラオスはピュタゴラスの一弟子であるが、ピュタゴラス学派の考え方は、いかに数字を駆使して居ようにも、やはりイオニア学派の物理学的自然哲学と内的親和性が高いのである。

といっても、タレスの自然哲学とピュタゴラス学派の考え方が同じものを指す、ということではない。そうではなくて、両者ともにその思惟の形式が同型である、ということをここで私は言うのである。

そしてこのことは彼らピュタゴラス学派の数式にも表されている。ピロラオスは言う、「数は、二つの固有の種類、すなわち奇数と偶数をもち、また第三のものとして、この両者から混合されてつくられた、奇偶数(数字の一のことを指す。「一は奇数でもあり偶数でもあるから」と彼は言う。)をもつ。」と。そして彼らによれば、奇数は限定者であり偶数は無限者であるので、以上のことを言い換えると、「奇数+偶数=一」であり、かつ「限定者+無限者=一」となる。(同、82頁、225頁)

ここでいう彼らの一は根源的単位をもつものとしての一者であって、物理的自然界に存在する一存在者を言うものではない。だから、ピュタゴラス学派の一が、例えば土などを意味するのではない。しかし土であれ木であれ一つの存在者であるので、一であると言える。すると、ピュタゴラス学派の「無限者に限定者が加えられれば根源的一者になる」という考え方と、「無限なる水に水ならざる限定的なる物が加えられると、土などの一つの存在者となる」という考え方とは、「一」の意味が異なるにしても、その思惟の形式は同型——とまで言っては言い過ぎならば、少なくともかなり類似しているのではないだろうか。

このように考えると、タレスの物理学的世界観はピュタゴラス学派にあっては数学的に表現されている、と言えるのかもしれない。



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