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正しさと正しさのぶつかり合いのゆくえ


タチが悪い衝動は、お互いの正しさのぶつかり合いだと思う。
「よかれ」「こうあるべき」は、ある意味しゃんと立つための背骨のようなもので、これがぶつかるのは、言ってみれば骨と骨のぶつかり合いである。ぶつかり合って骨が折れたら痛いに決まっている。

「なんでもいいじゃん」「こだわりすぎ」そんな声もあるかもしれない。
柳のように風を受け流せたらいいけれど、柳にだって幹はある。水のように形を変えられたらいいけれど、意志を持たずに適当に流れて行き着いた先は選べない。
その覚悟が持てないなら、やっぱり自分の正しさを羅針盤にして進む方がいい。

先日、年下の人に注意したところ、別のところから物言いがついたことがあった。曰く、非は指示を出した自分にあり、その年下の人にはないのだと。個人的にはどちらにも非はあると思ったが、あまり納得はしてもらえなかった。この人とは別の時にも、あることのルール設定や取り決めに関してちょっと揉めた。
それぞれの「こうあるべき」は統一できないし、それ自体は悪いことじゃない。ただ、自分の「正しさ」で相手を論破することは、正直良し悪しだ。

相手との話の中で、自分の考えや主張を話すとき、「伝えたい」が「論破したい」にならないか時々注意しなければと思う。



そもそも、「論破したい」にならないかを気にしなければならないほど話す、ということは、根底には「コントロールしたい」があるのかもしれない、とふと気づいた。

他人をコンロトールすることは不可能だけれど、自分が管理できないところまで物事に進まれてしまうことには恐怖がある。「何でもどんとこい」にはなかなかなれないし、最低限のリスク管理として押さえるべきは押さえておきたい。この「押さえるべき」をどこまで押さえるかが、「仕事ができる」とか「話が分かる」の分かれ道になるようにも思う。

ちなみに私はこの点、正直嫌がられることがある。かつて前提条件をそろえたと思っていたのに全くそろっておらず、混乱したり怒られたりしたことがよほど自分にしみついているのだろう。「具体的に何があったか」は覚えていないのに、細かい言葉のニュアンスまで、相手と齟齬がないかを確認したがる傾向がある。テンポよく仕事をしたい人や効率主義のにとって、これは大変煩わしい。「臨機応変にやれるでしょ」「その時対応したらいいでしょ」みたいな感じなのだろうか。

どうせ物事が思ったようにいかなくなり、臨機応変なことは目に見えている。だけど、1人でなにかやるならまだしも、大人数が関わるときはそうはいかないし、想定されることは確認しておきたい。別に結果さえよければ足並みがそろわなくてもいいならなにも言わないけれど、私の業界は結構足並みをそろえることを求める声が大きかったりする。

さらに、こちらとしては確認していたにもかかわらず、結局確認していたはずのことから少しそれたところで「あれはどういうことなの」「言ったよね」といった、私としては斜めの方向から問題が発生して責められたりする。それを「押さえるべきを押さえられていないのだ」と言われてしまえばそれまでなのだけど、そういったことが起こってくるから、確認できることは確認し、共有したうえでロスなく動いていきたい。

ロスなく効率的に動きたいという気持ちは同じはずなのに、おそらく上記の効率的にテンポよく働きたい人からは、時間を奪うこだわり過ぎのTakerの如き目で見られる(気がする)。

何を大切にするか、何に重きをおくか、何を良しとするか。

正しさのすれ違いは、価値観のすれ違いだ。


ふと、コントロールすることとマネージメントすることは、どう違うんだろう、と思い至った。マネージメントをしているつもりがコントロールしていることは、世の中にはある気がする。

そもそも、論破するつもりも押し付けるつもりもないのに、それでも正しさの衝突は起こりうるし、それはきっと「良くしたい」の衝突だから、きっとポジティブなものの方が多いはずなのだ。

だったら、それぞれの正しさをうまく調整して、マネージメントできるようになりたい。


それぞれの真っ当な「正しさ」が、うまく世の中に循環して、もっといろんなことが良くなることが、半径5mを幸せにできる道かもしれない。

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