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花日和 くちなし

くちなしの花の香りは、私を取り戻すために必要な魔法だった。

学生の頃は、1時間半の電車通学をしていた。
携帯のパケ放もない時代。
窓から見える空の色の移り変わりが小さな幸せだった。

でも、社会人になったら、空の色を気にしてる余裕なんか一瞬でなくなった。

毎日くたくたになるまで働いて、
帰り道は電車では携帯をいじり、
電車を降りたら、今日うまくいかなかったことを思い返しながら俯いて歩く。
仕事は楽しくて大好きだったけど、
学生の頃ののんびりした私が削れていくのがしんどかった。
大事にしていたものを手放しながら、働くために必要な力を手に入れていくような感覚。
なんて『流す』ことが上手になってしまったんだろう。

だから、くちなしが咲く季節になると、その香りを必死に探した。
くちなしの香りを探す私は、あの時と変わらない私のままだと思えた。
小さな幸せに満足できる、のんびりした私。
そうやって、8年間、年に一度の魔法の香りを毎年探してきた。
空の色を探せない代わりに。

今年のくちなしの季節に、私は会社を辞めた。
自分を取り戻すのに、くちなしの魔法じゃ足りなくなってしまった。

仕事がなくなったら、自分には何も残らないと不安だったけど、
どうしても一度からっぽにしないと気がすまなかった。

会社を辞めて2週間。
今年初めてのくちなしの香りは、
からっぽの私も、幸せにしてくれた。

取り戻さなくていいや、と思った。
取り戻すものなんて、何もなかった。

空を見ていたとき、私は何も考えてなかった。小さな幸せを見つけて、ただはしゃいでいた。

欲しかったのは、取り戻すんじゃなくて、
ぜんぶ手放す魔法だったのかもしれない。

そんなの、どっちでもいいわよ

と、くちなしには言われそうだけど。


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