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エッセイストになるまで【5】 40歳が怖くなくなった私たちは

40歳の誕生日直前に会社を辞め、40歳の誕生日に「文筆業」として開業届を出した。

Z世代と呼ばれる人たちが新人賞を次々とっていくのをみると、こちらの世代の書くものに需要などないのだろうか、と落ち込む。Z世代の書くものは、到底真似できない。というか、もし真似をしてしまったら、それはものすごくダサいものになるだろう。

この「年齢」というものも、私のエッセイの鍵となるだろうか――。
そう考えていたら、雨宮まみさんの『40歳がくる!』というエッセイ集と出会った。

6つ年上の彼女が書くものを、私はあまり読んだことがなかった。
30代前半、雑誌の悩み相談コーナーで彼女の回答で見かけ、「この人の答え、すごくいい!」と遅まきながら追いかけ始めたら、ほどなくして彼女が死んでしまったのだ。

どうして。
あんなにみんなの悩みに的確に愛を持って答え、人気があり、美しくおしゃれで、キラキラとした人が。
これから先、ずっと書き続けられるはずの人だった。
わからなすぎて、報道にあった「事故死」という言葉に、そうだ、きっとこれはなにか事故だったんだ、と思った。
あんな人を悩みから救っていた人が、鼓舞していた人が、死にたかったなんてこと、思いたくなかった。

今回、初めて彼女のエッセイ集を読んだ。タイトルに惹かれて手に取ったそれは、彼女が死の直前まで書いていたエッセイの連載をまとめたものだった。

連載の出だしは、ほの暗さはありながらも、前向きな言葉が並んでいる。

いつまでも若い人でいたいわけじゃない。もうババアですからと自虐をしたいわけでもない。私は私でいたいだけ。私は、私のままで、どうしたら私の「40歳」になれるのだろうか。

雨宮まみ「40歳がくる!」

そのほかにもヌード写真を撮ったり、綾波レイのコスプレをしたり、後輩たちにすてきな背中を見せたりする。七転八倒しながらも、「私の40歳」を獲得し、更新していくのだろう、という勢いを見せる。

途中まで。

いつのまにかベースラインに流れていた不穏な音がどんどん大きくなって、彼女の「40歳」を塗りつぶしていく。生きるために来週着ていく服を買い、ライブのチケットをとり、飲めないお酒をがぱがぱ飲み、仕事をめちゃくちゃに入れようとする。そうでないと、40歳がくることに耐えられない。

愛されていないし、愛される価値がないし、醜くなる一方だし、この先仕事はなくなるだろうし、明日が怖い。40歳が怖い。

なぜ、そんなにも?

最初は共感していた気持ちが、どんどん「わからない」になっていく。

読みかけの『40歳がくる!』を持って、41歳・同い年の友達とご飯を食べにいった。

彼女は最近美顔器ローラーを買ったらしい。私は私でジムに入会した。「明らかに肌の感じ、からだのラインが変わったよね」と話し合う。
「こういう話してるとAIが聞きつけて、インスタの広告がそんなのばっかになんのよ。〈42歳・美ママが内緒でしてること〉とかさー」「わかるー!」

でも私たちは、死にたいとは思っていない。最近まで年齢を間違えて「42歳」と答えていた。なんかもう、41歳だったか42歳だったか、どうでもいいかなって、なっていた。

その違いってなんだろう。と、持ってきた『40歳がくる!』を友達に見せながら話し合う。

もちろん、雨宮さんの絶望は私には知る由もない。女だとか40歳だとかなんだとかとは全然、別のところで、命を絶ったのかもしれない。それは誰かが決めて、語ることではない。
それは承知のうえで、目に見える一面として私が考えたことは、

たった数年前だけど、雨宮さんがいた時代には、ルッキズムもボディ・ポジティブもなかった。#MeTooが盛り上がったのが2017年で、彼女はその前の年に死んだ。

だから、私たちよりもずっと厳しく、「女は年をとったらおしまい」という信仰にさらされ、巻き込まれていた。

そこから喉から血を噴き出すように叫び、反抗し、いくつもの文章で女たちを救い、世間の目を変えていった。雨宮さん自身がそれと闘いながら、少しずつ少しずつ「これっておかしい」とみんなの目を開いていった。

その先に、ルッキズム、ボディ・ポジティブ、#MeTooがあって、今、41歳になる私が書くエッセイには、Z世代の感性へのやっかみはあっても、歳をとった自分への呪詛はない。

私や私の友達が「40歳がくる!」と怯えなかったのは、私達が賢くなったからでも能天気だったからでもなく、雨宮さんたちが死ぬ思いで作ったムードの中で40歳を迎えられたからだった。

そうだ、エッセイは、ムードを作ることができるんだ。
「こういうこと、考えてもいいんじゃない?」
「それって、こうともとれるよね?」
「もっと、みんな、こういうことしていいよ!」

みんなが自分の中だけでしまっとくことを、わざわざ明文化して、
「これはアリ」ってことを伝えるのが、エッセイなんだ。

40歳が怖くない私は、その先のどんな「これはアリ」を言えるだろうか。
たとえば、それは、40歳になってもママになっても才能の兆しがなくても、夢を見ることだったりするだろうか。自分を死ぬまで楽しみに思って生きることだろうか。

私は来週、42歳になる。




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