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来るもの拒まずでいたい

『維摩経』というお経に、こんなシーンがあるそうです。

維摩という悟った人と文殊菩薩が話し合っている。その周りに仏弟子たちがいる。そこへ天女があらわれて、二人を讃える花のシャワーを降らせた。維摩と文殊菩薩に降った花はそのまま下に落ちていくけれど、仏弟子たちに降った花は身体に張り付いて取れない。一生懸命取ろうとすればするほど、ますますくっついて困ってしまう。それを見た天女は仏弟子に尋ねた。

「どうしてそんなに一生懸命、花を払い取ろうとするのですか?」
仏弟子は言った。「こういう華やかな飾りは、出家者には似つかわしくない。身につけてはいけないものだから、払い落とそうとしているのです。」
天女は言った。「払い落とそうとするからくっつくのですよ。出家者に花は似合わないなどといった分別をするからこそ、ますますつくのです。分別から離れている菩薩たちには、花がくっついていないでしょう?」

分別というのは、本来分けようがないものを識別・ジャッジすることで、仏教においては苦悩の元とされています。この場面においては、ただ空間にひらひら舞うものを「花だ」「花は華やかなものだ」「出家者には良くない」と言葉で捉え、価値づけしています。だから「良くないものが降ってきた」という判断がうまれ、仏弟子は困惑する。でも維摩と文殊菩薩は、花をひらひら舞うものとして放っておけるので、何も悩まないのです。

ジャッジは、確かに苦悩をうむなあと思います。たとえば「私は〇〇な人間だ」と決め込んでいると、違う風にしたくなっても「でもそんなの私らしくないし」と止めてしまったりする。他の誰でもない、自分が自分の邪魔をするというのは、しんどいです。それとか「私はしょうもない」と思っていると、素敵な話がきた時にあわててしまったり、逆に「私はすごい」と思っていると、評価されない時に拗ねてしまったり。

たぶん自分を表すぴったりの言葉というものはなくて、ましてや自分が何かを手に入れた、あるいは失ったということも、そのように考えているだけで、ほんとの様子はわからないのだなあと思います。だからといって人生に判断が必要ないわけではなく、しいて言えば、まずは自分を苦しめるようなジャッジをやめることが、柔軟さにつながるのかなと思いました。


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