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とある絵描きと私が見た海

「繭乃にはこの海、何色に見えるの?」

今から約2年程前の春の終わり。
私は傷心しきっていた。
全てを一度ゼロに戻したくて、バイトもほぼ行かず、活動という活動もせず、自分に絡みついていたしがらみというしがらみをすっかり無くした。
新たな自分に成るべく、それまで嫌っていた自己啓発本なんかも読んでみたりするのに「どうせ変われやしない」とフラフラと歩いた渋谷でわざわざ声をかけられては、面白そうだと感じるものに誰彼構わず付いていって。
全て壊す勢いであらゆるものを解放し、受け入れた。
悪く言えば自暴自棄であった。
もう、全部がどうでもよかった。

その時期に渋谷で出会った一人の外国人の絵描きが居た。

その人へは私から声をかけた。
まだコロナの猛威もない世界だった頃。
109前のスクランブル交差点を行き交う人々を凝視しながら、ひたすら手に持つスケッチブックへ凄まじい量の人物デッサンをしている外国人男性がいた。
私は、その時たまたま一人でカメラを持って撮り歩いていて、魅力的に映った彼を何枚か隠し撮りした。そして、もっと近くで撮りたくなった私は、声をかけて更に何枚か撮らせてもらった。

そこから互いのInstagramを交換した。英語と日本語の混ざったやりとりをしているうちに、彼は喧騒から離れた海沿いに住んでいることを教えてもらった。
渋谷で出会った年の夏「家の近くの綺麗な海を君に見せたい」と外国人ならではなロマンチックな誘われ方をして、私はバスに揺られて小旅行をする事になった。

彼の過ごす時間はとてもスローだった。
むしろ時間という概念のない生活をしていた。
料理が好きだというのでご飯もご馳走になったし、彼の今まで描いてきた絵もたくさん見せてもらった。
彼が作品として描く人物はどの人も朗らかであった。
彼にとって海は精神統一や癒しの場だと聞いた。
私も海は昔から大好きなので、とても気持ちが分かる。
彼の描く絵には自然がとても多く、特に、海と太陽、海と月は彼が常に持ち歩いているノートにも大量に描かれていた。

真夏日の天気の良い日だった。
少し遅めのお昼から2人で海へ出掛けて、浜辺でゆったりと過ごしながら、私は彼が描く海の絵を見ていた。
彼は浜辺に着くなり画材を取り出して、スラスラと迷うことなく真っ白いスケッチブックに色を乗せていく。
「どうしてそんなにパパッと描けるの?」
と私が聞くと、彼は不思議そうな顔をしてこう答えた。
「感じるままを描いてるだけだよ?繭乃も描いてみなよ」
そう言って紙と筆を渡された。
感じるままを描くだなんて…奥行き感とか構図とか…色だって濃淡を出さないといけないのに…。
絵には微塵も自信のない私は筆を進められずに渋っていると、彼にこう言われた。

「繭乃にはこの海、何色に見えるの?」

私にはその一言が衝撃的だった。
今までの人生、正解はどれかと探してばかりでいた。
美術の中でも絵画は一番苦手で、風景画は尚のこと苦手だった。見たままをそのまま正確に写さねばと思っていたから。
でも、何色にどんな風に見えているかなんて人それぞれだ。
そんなことに、その時初めて気が付いた。
私が見たまま、感じたまま描いていいんだ、と。
それでも、自分で描くのには自信が持てなかったので、彼に私の見ている海を描いてもらった。
「この辺のここはこんな色で…」
目の前で色を作ってもらいながら彼に描いてもらった海は、私が見ている海だった。
彼にも彼自身が見ている海を同じように描いてもらうと、また全然違う雰囲気を持った海になった。

その人が何を大事にしていて、どう感じているか。
2つの並んだ絵から、その違いや個性をとても感じた。
どちらが間違ってたり、正しかったりはしない。
"多様性"なんて言葉が今一人歩きしているように思うのだが、この多様性は共有して互いに認識し、受け入れ合うから意味が生まれるのだろうなと、私は個人的に思う。

あの日見た海は、人生で一番、
深くて広くて優しい青だった。

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