映画『運び屋』から「家族」とは何かを考える

映画『運び屋』を観ました。
クリント·イーストウッド監督兼主演の作品。

簡単に言うと、家族よりも仕事を優先させてきた90歳のおじいちゃん(アール)がお金稼ぎのために薬物の運び屋始めちゃいましたというお話です。

観る前は
『薬物』『運び屋』といった物々しい単語と、予告で出てくる筋骨隆々ごつい方々の印象から
「めっちゃ怖そうな映画やな···」
と少し恐れていました。

で、恐る恐る観てみた結果の感想↓
※ネタバレあり(本当に一回観てみて下さい。感動します。)

アールが家族を蔑ろにして、いくら家族と距離を縮めようとしてももう手遅れになっていたのが、切なくて切なくて。

運び屋で高額の報酬を得て、家族のために使ってあげても、娘や妻からの信頼は取り戻せない。家族に再び愛してもらうために運び屋の仕事ばっかりしているアールを見て、いや、そうじゃないよ、家族が求めてるのはそういうことじゃないんだよって、アールに残された少ない時間を想像して、このままじゃ本当に取り返しがつかなくなるって、もどかしくてしょうがなかった。

妻ががんで死にそうになった時に、一度は薬物を運ぶ方を選んだのに、脅しを無視して妻の所に駆けつけたときのこっちの安心感よ。あぁよかった、これで仕事選んだらもうどうしようもなかったって。
その時の妻の嬉しそうな表情がもうダメだった。あんな表情されたら涙腺崩壊しますわ。
特に「一緒にいるのにお金はいらないわ」「あなたが思っている以上に私あなたが来てくれて本当に嬉しいの」ってセリフとその時の表情がもうダメ。それまでされた酷いこと全てを受け入れてそれでもあんな風に慈愛に満ちた表情ができるって、あぁやっぱ家族だなって。家族って本当に特別で、何があってもやっぱり一緒にいられることが幸せなんだ。

最終的にはアールは警察に捕まってしまう。パトカーの中でアールは後悔と深い悲しみの表情で「間違いだらけの人生だった」と口にする。
この時の表情もとにかくダメ。あんな切ない声色と顔と涙ありますか、胸が締め付けられました、あぁダメ。

でももっと涙腺に来たのが、最後の裁判でのシーン。
アールが有罪となって退廷するときに、家族が「居場所がわかるだけよかったわ」と言うんです。
いや、これ、もう···家族がどんなものかを一番よく象徴しているセリフだと思いました。
何があってもいい、生きていることが分かればそれでいい、家族ってそういうものかもしれません。

個人的な話ですが、とにかく私はこういう家族ものに弱いです···
どんなことがあっても最後まで側にいてくれるのは家族

で、ふと考えてみたんですけど

家族って、血が繋がっていれば家族というわけではないですよね。
たとえば、ペットを家族だって思う人だってたくさんいるわけです。犬でも猫でも蛇でも何でも。

ソフトバンクのCMに至っては、犬がペットの立ち位置での家族ではなく、父の立ち位置で家族になってしまっています。(よく考えたら革新的なCMですよね笑)

「家族」ってすごく定義するのが難しいものだと思います。
血が繋がっていようとなかろうと、人であろうとなかろうと、生き物であろうと物であろうと、その人が家族だと思ってしまえばその対象は家族なんですよね。

そして家族だと思えば、そばにいてくれるだけで幸せ、そばにいなくても最悪生きていると分かればいいっていう関係になる。
でもそれってとんでもなく深い関係ですよね。
恋人とも友達とも違う。
親友に近い、とも思ったけど大分違うなあ···

とにかく、今もし自分に「家族」だと思える人(人に限らないけど)がいるなら
それはすごく幸せなことなのかもしれない、と思いました。
「家族」がいるだけで、生きようと思えます。