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安定志向だった私が、ベンチャー企業経営者になるまで

私は、28歳のときに独立し、株式会社ストリートスマートを創業しました。今年で14年目を迎えようとしています。

創業してから、現在の「テクノロジーと人をつなげる」というミッションのもと、Google Cloud のプロダクトの1つ Google Workspace の導入・活用支援のサービスを提供することになるまでも紆余曲折があったのですが、今回は、私の幼少期から、ストリートスマートという会社を創業するまでの話を振り返ってみたいと思います。

実は、公務員の両親のもとで育った私は、大学に進学するころまで「自分も公務員になるだろう」と思っていました。それが、どんな経緯で起業するに至ったのか。いまでも、先輩経営者には「ネガティブだな〜」と笑われ、コンプレックスだらけの私の創業ストーリーが、誰かの一歩踏み出す勇気になればいいなと思います。

自分に自信が持てなかった幼少期と、祖父の存在

私は幼い頃から、自分に自信がありませんでした。

学校の成績は良い方で、上位には入るものの一番にはなれず、生徒会のメンバーにも選ばれるけれど、自ら書記というポジションを選んだりと、表に立つよりも一歩後ろで人の影に隠れるような性格でした。

運動も苦手でした。中学に上がったときに、ずっと憧れていた野球部に入るのですが、レギュラーになることができずに、挫折を味わいました。

小さい頃って、運動ができたら、すごく自信になりますよね。私の場合、運動が得意でないことがずっとコンプレックスでした。ただし、負けず嫌いで、真面目ではあったので、このコンプレックスこそが、のちの人生の中で苦しいときを乗り越える「力」として働いてくれることになります。

また、幼少期でよく思い出すのが、祖父のこと。

私の両親を始め、親族には公務員など、いわゆる”堅い”仕事に就く人が多かったのですが、祖父は身近な親族の中でほぼ唯一の商売人でした。祖父も元々、学校の教員をしていたのですが、他の先生と揉めて学校を辞め、自分で商売を始めたようです。

私が小学生の頃、夏休みに徳島の田舎に帰ったときに、何度か祖父の仕事について行ったことがありました。祖父は、鎌などの農具を農協などに卸す仕事をしていて、お客さんである農協へ行っては何やら話している様子でしたが、いま思うとあれは営業活動だったのだなと思います。

祖父は、個人事業主として商売をしていて、人を雇うことはしませんでした。子ども4人を大学に行かせていましたし、稼ぎが少なかったわけではなく、むしろビジネスとしてかなり成功していたと言えますが、規模よりも目の前の着実な成果を重視するような、慎重な性格だったようです。

当時の様子は鮮明に覚えていて、この祖父の存在も、その後の人生の選択に影響を与えることになります。

公務員を志向して、国公立大学に進学するも…

小さい頃から「自分も公務員になるのだろう」と何の疑いもなく思っていた私は、高校は県内の進学校に通い、その後、国公立大学に進学しました。

しかし、大学に進学してまもなく、進路に迷うことになります。

大学ではバイオ工学を専攻し、卒業後の進路は、大学院へ進学するか、企業のMR(医薬情報担当者)として就職するかどちらか、という感じで、就活する人は限られていました。

そんな中、青色発光ダイオードの製造に関する特許を巡り、開発者の一人が元勤務先の日亜化学工業株式会社を相手取り起こした裁判が話題となりました。論点としては、特許の所在と発明に対する対価で、第一審の中間判決においては会社側に特許があると認められました(数年後、双方が和解勧告を受け入れたため最終的な判決は出ていません)。

当時、同じ学部の友人とニュースを見ていた私は「これが日本における科学者の地位なのか」「組織の一員として頑張っても報われないのか...」と悲観せずにはいられませんでした。

思えば、これが初めて、資本主義を身近に感じた出来事でした。
それまで、家族は公務員として働き、毎月決まった給与が支払われ、幸い、家庭で経済の影響を大きく感じることなく暮らすことができていました。

そのまま違和感もなく、公務員になっていたかもしれない私ですが、この頃をきっかけに、全く違う進路を歩んでいくことになります。

「起業する」という目標を抱く

進路に迷いながらもバイトに明け暮れていたころ、私の負けず嫌いな性格をよく理解して、焚き付けてくれた人がいました。現在の妻である、当時の彼女です。

彼女も、家族に公務員の父がおり、育った環境は似ていたのですが、学生時代は演劇にのめり込み、誰もが知っているような著名な演出家のもとで演劇を学ぶほど、本気で打ち込んでいました。当時は、自分のなりたい姿に全力で取り組む彼女が眩しくて、憧れのような感情を抱く一方、「これといって打ち込むものがない自分は、どうしたものか...」と落ち込むこともありました。

そんなとき、彼女が勧めてくれたのが『金持ち父さん、貧乏父さん』という本でした。

この本は、お金をどう使い、稼ぐのかといったことが、金持ち父さんと貧乏父さんの対比の物語りで語られ、賛否が色々とある本だと思うのですが、当時の私にとっては十分すぎるきっかけになりました。

実は、私自身はこの日のことをよく覚えていないのですが、彼女が用事を終えて家に帰ってくると、本を読み切った私が、正座をし、目をキラキラさせて「起業する!」と語ったのだそうです。

いまとなっては「単純で、恥ずかしいな」と思うのですが(笑)、幼いころからのコンプレックス、商売人であった祖父の存在、組織の中で働くことや資本主義への違和感が、このときにすべてが繋がったんですね。

ベンチャー企業に飛び込む

起業する、という目標ができてからは、大学で仲間を集め、ベンチャー企業の研究サークルを立ち上げました。「ベンチャー技術論」という授業の講師をしていた上場企業の経営者の自宅まで押しかけて、サークルのセミナー講師をお願いしたり、企業を紹介してもらい、何社もインターンを経験することになりました。

しかし、学生のうちに起業をすることはしませんでした。何社もインターンを経験する中で「いますぐに事業を始めても、失敗するだろう」と思ったからです。この時点でもまだ自分に自信が持てなかったんですね。もっと経験を積むために、一番勉強できると感じた会社に長期インターンとして参加することになりました。それが、のちに就職し、役員まで務めることになる、全国で洗車場を運営する会社でした。

いまもお世話になっている当時の社長は、若いときから経済的に苦労しつつも、自分で事業を立ち上げ、人生を切り拓いていました。安定して恵まれた家庭環境で育ちながら、コンプレックスだらけの自分と比較し、憧れを抱いたのだとも思います。

インターンで入社した当初は、『青年社長』という本を読んで影響を受け、経理の仕事を希望し担当していました。当時、上場を目指していて、初めてVCから出資を受けた頃。店舗の収支計画を作ったり、金融機関向けの資料を作成したり、数人ほどの規模だったので、直接社長に仕事を教えてもらいながら実践経験を積むことができました。

大学を卒業して、社員として働き始めてからは、店舗運営、FC開発、FC支援、経営企画、などの多くの部署を経験しました。事業が成長し、メンバーもどんどん増えていくので、それぞれ異なる経験を持つ上司に学ばせてもらったことはいまでも活きています。

部署が変わったのに、以前の部署の上司に資料作成を頼まれることもよくありました。正直、面倒だと思いつつも、嫌と言わずにやってきたことは、結果として、私の仕事の原点になっています。

現在のストリートスマートの事業は、「テクノロジーと人をつなげる」というミッションのもと、企業や教育機関向けに研修などを実施しているのですが、進化が著しいテクノロジーを扱っているからこそ、それを研修に落とし込むのは、正直面倒だし、労力を必要とします。でも、面倒だからこそ、取り組み続けることで価値が高まり、本当に人の役に立つ事業を生み出すことができるのだと実感しています。

また、当時読んだ中谷彰宏さんの『20代でしなければならない50のこと』という本に影響を受けて、会社の「会」と呼ばれるもののほとんどの幹事を引き受けていました。幹事は、企画から予算取り、各所との調整など、プロジェクトマネジメントのエッセンスがすべて経験できるんですね。これも面倒だけど、経験を積むには最適ということで、ずっと続けてきたことの一つです。

会社の危機と、役員への昇進

そんな具合で20代はとにかく働いたのですが、ずっと順調だったわけではありません。

あるとき、営業の成績が芳しく無く「そんなんで起業できると思ってるの?もうやめたら?」と社長に言われてショックを受け、仕事をサボっていた時期がありました。でも、社長は、負けず嫌いな私の性格を理解していて、あえてこの言葉を言ってくれていたんですね。

結局、悔しくてたまらず、何とか社長に認めてもらおうと、テレアポを取りまくりました。それこそ、月200件といった目標を作って。そのうち、テレアポに特化した部署をつくることになり、学生のアルバイトも雇い、室長として初めてマネジメント業務を経験することになります。元々、器用に何でもできるわけではないからこそ、経験から学びを得て、誰でも成果を出せるトークスクリプトを作ったり、パターンに落とし込んでノウハウにして、チームに展開していました。

また、当時は私は若かったですし、馬の合わない先輩に反抗することもあったのですが、自分も成果を出せるようになってくると「会社としてどうやったら成果が出せるのか?」という視点が芽生え始め、そのうち先輩方も、自分の仕事のやり方など色々なことを教えてくれるようになりました。

そして、入社して3年ほどが経ったころ、会社に大きな危機が訪れます。会計基準が変わったことで会社の業績が一気に厳しくなってしまったんです。そのとき社長は、現行の体制のまま無理やりにでも上場を目指すのではなく、新しい基準に見合うように会社の体制をしっかり整えて、もう一度上場を目指すという方向に舵を切ります。

当初の想定よりも上場に時間がかかることや業績が上向かないことを懸念し、それまで、上場を目の前の目標にしていた社員たちの離職も相次ぎました。そして、そのポジションを補うような形で、私が役員になることを打診されます。赤字の原因となっていた不採算店を閉めて事業を整理し、また新たな稼ぎを生み出すために新規事業を立ち上げる、という重要な役割でした。

当時、私は20代半ば。経験を積み、少しずつ自信をつけ、仕事を楽しんでいましたが、役員としての実力は足りていなかったと思います。しかし、厳しい状況ながら上場を諦めていなかった社長の姿に鼓舞されて、役員に就任させて頂きました。

それからは、駐車場での洗車サービスや、カーディーラー向けのコーティング、車販売などの事業を同時並行で立ち上げ、その中には、現在の主軸の1つの事業になっているものもあります。

この頃、社長がよく口にしていたのが「相互利益」という言葉。それまでのどちらかというと会社の利益の優先度が高かったところから、事業の苦難を経験して、人を大切にする経営スタイルに変化していきました。この変遷を渦中で経験したことは、私の現在の「人」を軸にする経営ポリシーにも繋がっています。

いよいよ独立。しかし、やりたいことがないまま、創業へ

その後、新規事業が利益を出せるようになり、収益構造が変わって、会社全体が黒字が見えたタイミングで、「独立したい」と切り出しました。社長は、私が起業したいということは知っていましたし、快く送り出してくれました。

ただ、独立することが目的となってしまっていて、起業の準備はしていない状態。辞める前に起業準備をするのは、お世話になった社長や会社に失礼だと思っていたこともありますが、組織としてどうしたいなんて理想やイメージは全くありませんでした。

そこで、まず目標にしたのは「いままでの役員報酬と同じくらい稼ぐ」ということ。つまり、「お金」が軸でした。事業はなんでもよかったんですね。創業期は、海外から輸入した歯ブラシを売ってみたり、メロンパンの移動販売をしてみたり。

1年ほどでお金がなくなってきて焦っていたころ、先輩起業家の新しいサービスの立ち上げを手伝うことになります。これが、現在のストリートスマートの主事業となる、Google Workspace (当時は Google Apps )の販売や導入支援でした。

そのくらい、何も決まってない中でスタートしたのが、ストリートスマートです。ストリートスマートとは「どんな環境でも、経験から知恵を得て、力強く生き抜く人」を意味しています。最初こそ「独立、起業すること」が目的で、色々な事業に手を出し失敗をしましたが、ある意味こだわりがなかったからこそ、たくさんの失敗を経験し、学びに変えていくことができました。

最初から、美しい目標なんてなくても、コンプレックスが原動力でもいいと思っています。それよりも大事なのは、小さなアクションでもいいからまず動き出してみて、経験から学び、自分のミッションや役割を考え続けていくことです。

私もそうすることで、ストリートスマートという社名と、実態としての事業や組織が近づいていき、いまのかたちにたどり着いたのだと思っています。

もし、いまの自分に自信が持てなくても、まずは「一歩」を踏み出してもらえたらいいなと思います。
創業からいままでの紆余曲折は、また追って。


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