不幸より幸せが当たり前に良い

「不幸自慢」ってあんまり好きではないです。
もちろん辛いことがあったら吐き出していいものだし、それを抱えてしまって苦しいくらいなら人にお喋りした方が絶対にいいと思ってます。
辛いことを乗り越えたことだってそれは胸を張って誇っていい。ただ、「不幸」自体を凄いことだと思ったり羨むことは良くない。
人にはいろんな過去があって、どんな人もいろんな思いをしてきたと思います。けどそれにばかり固執しちゃいけないよなって最近すごく感じるめぶきです。

苦しいこと、辛かったことを反芻するとそれは今の自分にものしかかってくるなって実感したことがあります。振り替えるな、とは言わないけど必要以上に感情とか記憶を繰り返すとダメージになりかねない。
実際に嫌だったことをあまり考えずにいたら楽しいことに上書きされて忘れていたこととかありました。妹と弟と話していたら「めったん(私)はこんなことあったよね」って話題に上がって、「そんなことあったなぁ…」って。当時は本当に心の中にしこりとして残っててめちゃくちゃ悶々していたし友達とかにも吐き出してたのに、ここ数年間はその出来事が自分に起きていた記憶が完全に抜けてた。単純に私の記憶力の問題かもしれないけど。


昨晩こんなことを呟いてました、酔っ払いです。
これは漫画を読んで感化されての言葉なんだけど、今もこの考えは変わらずで。本当に苦しいことの方が厚みというか重量がある。これを書いたときになんでだろ、って単純な疑問もあったんですが先輩がリプでくださった内容がすっと腹に落ちた。
辛いは考える、楽しいは考えない。
その物事に対して向き合う時間とか労力、思考が重なれば重なるほど分厚くなってくものだなって。さっき話した妹弟と話した嫌なことを忘れていたのが正にそれ。そのことに対して時間をかけなくなったらどんどん軽くなって手の中から飛んでっちゃたんだ~って。

忘れられないことだってあるし、無理に引きはがせないものもあるから簡単に言えることではないけど不幸は無駄な反芻をするべきじゃない。っていう私の考え。
苦労話とはまた別だとは思ってます。人生の先輩方の過去苦労された話とかは勉強にもなるし、積み重ねてきたものが現在に繋がってると思うので。
不幸自体を自慢すること、不幸自体でマウントを取ること。これって無駄に重さを増していくだけでどんどん不幸から逃げられらくなるんじゃないの?って。渦の中心に向き合い続けるからずっとその不幸だったことしか見えてこない、別のもっと素敵なものをたくさん探したほうがいいのにな、と感じることがしばしば。
そんなことを言いながら自分がやっちゃってたりするから気を付けないといけないけども。

気持ちが健康じゃないと幸せとか嬉しいことを接種する余裕もないから難しいときももちろんあると思うけど、たくさんの楽しいことハッピーなことを見たり聞いたり実際に体感した方が絶対に人生楽しい。
時に不幸とか影は魅力的に見えることもあるけど、やっぱり幸せであった方がいいよなあ、とめぶきは思うのでした。まる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?