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コミュニティは誰のためのもの?

noteでアウトプットを始めて、約1年くらいが経つ。

ちょっと振り返ってみたいと思う。

率直に、
本当に有難いなーと思う。

何かというと、
アウトプットをすることで、
言葉にできないモヤモヤが少し晴れるような気がしている。
(しかしながら、誰かのvoicyで「怒りと言語化」は相性が良い。怒ろうとするときは、言語化すると加速する。とも言っていたので、落ち着かせたいときは、あえて言葉にしないで曖昧にすることも必要。)

じゃあブログでええやん!というのもごもっともだ。

でも、noteのUIが個人的に好きなので、使っているという話で。

あとは、承認してもらえるのも新鮮だ。
私は、言語化することがすごく苦手なので、話すときに自分の言いたいことを適切な言葉で話すことが難しい。
でも、「いいね」と言ってもらえると嬉しいものだ。
(しかしながら、承認欲求の奴隷にならないように気をつけたい)
この「いいね」も自分の感覚と違うのも面白い。

noteを書き終わって、
「あー良いアウトプットできたなー」
と思っても、全然「いいね」がつかないこともザラだ。

逆に
「時間がないから、推敲する時間ないや!もう出してしまえ!」
と若干投げやりなnoteで、かなり「いいね」がつくときも。

分からんものだなー。

最近だと、この記事がちょっとずつ「いいね」が地道についてきている。


読み手の皆さんと、書き手の私の、ちょっとしたギャップが面白いなと気づきを得られた。

最近、考えてみたことを言語化してみる。

ある団体は、昔ながらでその道界隈では有名な団体で、若干敷居が高いとも言われている。そのため、若い人が入ってきづらい現状に課題がある。
最近も、その問題をどう解消すべきかという話し合いが行われた。

幹事の方々の話から、この価値観は共有されたように思う。

「私(幹事一同)は、この団体に鍛えてもらって感謝しているし、とても勉強になっている。だから、門を開いて、どの人たちにもということではなく、ある程度はレベルの高いコミュニティにしていくべきだ」

私も同感である。ブランドは保つべきだということには賛成である。

なぜなら、良い集団に人は惹きつけられて、集まるからである。

しかし、これでは「若い人が入ってきにくい」という問題を解消できるとは思えない。

考えるべきことは、2つだなと思っている。

ア)「若い人」と一括り(一般化)しないで、その人自身の背景や文脈(ストーリー)を想像すること。

イ)内輪でやっていると外から来た人は案外冷めること。

ア)に関しては、容易ではない。しかし、相手の裏側を想像すること、関心をもつことが絶対必須。例えば、
○○が好きなのかもしれない。なぜなら、大学で○○専攻していたから。
職場で○○を一生懸命やっていたから、○○に興味があるかもしれない。
そういうことを想像して、上記の人がコミュニティに入れるようなシステムを構築すべきだと思う。
システムを構築すべき、というよりも、ある程度はレベルの高い人しか入れないという選定を止めるだけで良いと思う。

イ)に関しては、先ほどvoicyでけんすうさんが「オフ会はやらない、限定的な集まりをしてしまうとオフ会に参加していない人が冷めてしまうから。」と話しているのを聞いた。その通りだなと思った。
盛り上がりすぎてもいけないし、冷め過ぎてもいけない。
その温度感覚がコミュニティ運営では必要なのかもしれない。

結局のところ、「コミュニティは誰のためのもの?」という自問を常にし続けなければいけない。
そして、「これだ!」という強固な形があるわけではないと、現時点では思っている。
太陽のように、不変なものではなく、
雲のように、可変なものであるように。

変わらないものは安定するが、変わるものは不安定だ。
最近も不安定な天気(雲の動き)に行動を左右される。

まあそんなものだ、というのらりくらりする考え方くらいが、しっくりくるじゃないかなと最近思う。

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