見出し画像

たられば話にならないハナシ

秋になると、友人と美大の学祭に行く。毎年大学の行き先を変えており、今回は二度目の訪問となる武蔵野美術大学に行ってきた。

大学内には学生が作ったさまざまな作品が展示してある。そして、作品の近くには、「よければ感想をください!」とメモ帳や紙が置いてあることが多い。たまにそれらを覗くと、一般のお客さんからの感想もあれば、”●●学科2年 ○田○子”というように、同大学の学生さんの名前が書かれた感想もある。これを見るたびに、わたしはキュンとするような、胸が締め付けられるような気持ちになる。


展示作品の作者は、この「感想くださいメモ」に好きな人から感想が書かれるんじゃないかと、期待と不安に胸を躍らせているのかもしれない。休憩から戻ってきて、その「感想くださいメモ」に意中のあの人の名前と感想が書いてあったら……とんでもなく嬉しいだろう。

また、その逆も然り。大好きな人の作品を観に行って、ドキドキしながら感想をメモに残す。相手は自分のことを知らないかもしれない。でも、感想を残すことで、二人が知り合うきっかけが生まれるかもしれない。

―――そんなことを考えていると、一人たまらない気持になる。それを一緒にいた友人に告白すると、「たしかに、(LINEなどでの交流が主流ななか)古典的な交流方法で素敵だよね」と深く頷いてくれた。


こういう青春を味わえるのは、美大ならではであり、学生ならではなのだろう。それは羨ましいような、それでいてほろ苦いような、ちょっとだけ複雑な感じだ。もう一度学生時代に戻りたいか?もしくは、自分も美大生という人生を体験してみたかったか?と思うと、さほどそんな気持ちにはならない。じゃあもっとさかのぼり、中学・高校時代に戻りたいか?と言われれば、「戻りたくない」とハッキリ言えるほど、名残惜しい気持ちはゼロになる。

なぜなら、仲間と協力して時間を過ごしたり、ルールに則って正しく何かをするという行為を、もう一度頑張る気力が一切ないからだ。短大生として20歳で学生を終えたのが、もう限界だったのかもしれない。だから今の生き方が一番気持ちがいいし、その反面、会社という集団のなかにいるとアップアップするのは至極当然のことなんだと思う。


話は変わって、現在、週3日のみ勤務する職場の方では、社内の方にインタビューをする機会が多い。営業、エンジニア、デザイナーと色んな方に話を聞いてきたのだが、その方々のなかには意外にも「実はライターをやっていた経験がある」という人がいる。みなさんはサラッとそのことを告白し、特段苦労したというエピソードもなさそうであった。そのたびに、ちょっと不思議な気持ちになる。

わたしはいつまでもライターとして四苦八苦しているのだけど、世間的にはライターってそう大変な仕事じゃないのかもしれない。というより、わたし以外の人は至極簡単にライター業務をこなせるのかもしれない。いやいや、むしろこれはわたしの問題で、わたしの処理能力のキャパシティが常人の半分以下なのかもしれない。…どちらにせよ、周りと色んな意味で歩幅があっていないらしい。

じゃあ、もっとデキる人間として他の人生を歩んでみたかったか?営業バリバリの人生、色んなタスクをこなせる人生、デザインで世界を変える人生、そんな風になりたかっただろうか?別にそうでもない。そもそも、別の人生を考えることも、そこに想像力を働かせることも、なんだかすごく面倒くさくて、まあ別に今の生き方で損しているわけでもないし、今より得したいという気持ちもないし、どうでもいいか!と原稿納期ギリギリの状態で寝転がったりしてしまうのだ。

だからどちらかと言えば、そんな「ものぐさ」な性格じゃなかったらどんな人生を送っていたんだろう?ということは気になるんだけど、そうなったらきっと、今のわたしとは全くの別人格の人間が出来上がっているだろうし、そんなよく分からない人格の人間の人生とか、自分には関係ないし、どうでもいいか!と、まさに今もベッドに寝転がっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?