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「いつも」と「もしも」

「もしものせかい/ヨシタケシンスケ(著)」という絵本を読んだ。
少し前にいただいた本なのだけど、心の奥底に突き刺さりそうな本だったので、実はしばらく読まずに置いていた。そして昨夜ふと読んでみようという気になり、手に取ったのだ。

人には「いつものせかい」と「もしものせかい」の2つの世界がある。その2つのバランスがいつも均等だとは限らないし、均等でないから悪いということでもない。

「いつものせかい」から”大切なもの”がなくなること、それはすなわち”大切なもの”が「もしものせかい」に行ってしまうことでもある。それは、とても悲しいことだろう。しかし、そうして「もしものせかい」が大きくなっていくことは、「いつものせかい」をより豊かに大きくしていく”糧”になるのだ。


予想通り、この絵本を読んでわたしは泣きそうになってしまう。
まず、わたしには基本的に「もしも〇〇だったら…」「あのとき〇〇していたら…」というような、”たられば思考”(自分の過去の選択を後悔するようなこと)がほとんどない。昔はいろいろと顧みることがあったかもしれないが、音楽活動や書き物を通して、そういう自分の選択(たとえ失敗したとしても)を肯定的にとらえるようになったのではないかと思う。

けれど、そんなわたしにもやっぱり「もしものせかい」はある。
わたしの世界からいなくなってしまった人たちがいて、”もしも彼らが生きていたら”、”まだ隣にいたら”などと考えることは、やっぱりあった。もしも、と考えるのは、わたしにとってつらく悲しい時間だ。だから、もしも、と考えるよりも、残されたわたしになにが与えられたのか、彼らとどう向き合い過ごしていくのか、と考える方が好きだった。

わたしの「もしものせかい」は小さく、「いつものせかい」の方が大きい。だからこそ、”大切なもの”が「もしものせかい」に居場所を変えてしまったとき、とても傷つく。「もしものせかい」と「いつものせかい」のバランスもすぐさま逆転し、「いつものせかい」がとても小さくなってしまう。

ここ半年以上にわたって、ひとつだけ”もしも”と考えていることがある。それは大好きな友人から拒絶されてしまったことだ。はっきりとした原因はわからないけれど、その拒絶された理由をたくさん考えた。あのときああしていたら違ったのかな、と何通りも考えた。でも答えは返ってこないし、結局無限の”もしも”が続いていった。

やっぱり、わたしにとって”もしも”と考えることはつらく悲しい。
そして、この”もしも”と考えることを通してわたしは、自分が選んだ選択と、今向きあっている人たちやその時間を大切にしたい、と改めて感じるようになった。

「いつものせかい」にいる人も、「もしものせかい」にいる人も、わたしにとっては丸ごと大事だが、直接気持ちを伝えることができるのは「いつものせかい」にいる人たちだ。限りある時間の中で、「いつものせかい」にいるあなたたちに、ひとつでも多くの感謝や愛を伝えられますように。

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