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約束

 子どもたちに声を掛けてリビングに来てもらった。
「なーにー?」
 まだ小学生の下の子は、無邪気にやってくる。中学生になった上の子は、特に返事もせずにソファに座る。
「きみたちが生まれる前に死んだおじいちゃんの話をします。大事な話だから、ちゃんと聞くように。いいね」
「はーい!」
下の子が返事をする。上の子は、居住まいを正して頷いた。

「約束を守ることが大切だってのは、分かるね?──」
 私は言葉を選びながら話し始めた。
 

 ちゃんと約束を守ろうと意識したのは、父の言葉を聞いてからだった。
 父は約束したことは必ず守る。相手が子どもでも、あるいは相手が自分だったとしても、約束したことは守る。そういう人だ。

 そんな父が、約束と誠実さについて、初めて語ってくれた。
 反抗期も少し落ち着き始めた高校生のとき、私は父と決めた門限を破ってしまった。
 当時すでに携帯電話を持っていた私は、遅れることを連絡できないわけではなかった。
 三十分くらいいいか、と親への連絡も、親からの連絡も無視した。
 遅れる理由が、友人と一緒にいる時間が楽しいから、というのは、言いにくかった。
 結局、携帯をポケットに入れたまま、電車の時間の都合もあって、門限を一時間近く過ぎてから家に着いた。
 いつも点いているはずの玄関灯が、今夜は消えている。
 そうっと家に入る。そうっと自分の部屋に行こうとしたが、見つかってしまった。
 リビングで、父の正面に座る。
「遅くなってごめんなさい。友だちと遊んでて、連絡するの忘れちゃった。次からはちゃんと気をつけます」
 先手を打って謝った。言い訳はしない。というか、出来ない。
 私は父の言葉を待つ。父は、大きく息をついてから、ゆっくりと話し始めた。
「できることだから約束する。これは、当たり前だ。今すぐに実現できなかったとしても、約束の中で描いた未来を努力して現実にする。そういう約束の守り方を誠実って呼ぶんだ」
「…はい」
 怒鳴って怒られるよりも、効く。
「誠実に生きろ。その誠実さは、必ず自分を助ける。たとえ相手が誰であっても、誠実に生きてみろ」
「…はい」 
 これは、最後通牒だ。次は、無い。言外にそう言われているように感じた。
 私は、父の顔を見た。薄くなった頭の下で、私とよく似た二重まぶたの深い色をした眼がこちらをじっと見ていた。

 私がちゃんと約束を守る意識を持ったのは、そのことがあってからだった。
 時には忘れてすっぽかすこともあったし、途中で心変わりしたこともあった。しかし、概ね口にしたことは、実現に向けて努力したように思う。
 それは、つまるところ、自分との約束を守ることなのかもしれない。約束した過去の自分を裏切らないこと。そして、未来の自分への約束に、責任を持つこと。

 本当は色素が薄い父の眼の色を、あの時以上に深くしないように。

 私は、大人になった。
 父は、私が大学を卒業してすぐに、ガンを発症した。医師の話では、このままだと余命は二年ほどだという。

「病気だろうとなんだろうと、人間の死亡率は百パーセントだぞ」

 父はそう言って、自宅での療養という名目で、好きなことをして暮らしていた。
 私は約束した。父が生きているうちに、結婚する。妻の花嫁姿を父に見せる。幸せな家庭を築く。そして、孫を抱いてもらう。

 父には言わなかった。きっとそんな約束してくれないだろうから。自分との約束だ。
 結婚した。妻の花嫁姿を父に見せることができた。ガンの宣告から、5年が経っていた。
 最後の約束だけは、守れなかった。それでも、父が亡くなったのは、最初に余命宣告されてから、十年近く経ってからだった。
 父にとっての孫、私にとっての子が生まれたのは、父が亡くなった1年後だった。

 約束を守って生きるのは、思いの外簡単ではない。守れなかった約束もたくさんある。
 そうだとしても、私は自分の子ども達に、約束を守って誠実に生きる姿を見せたい。


──という話でした。聞いてくれてありがとう。君たちにも何か伝わるもがあると嬉しいよ」

 話し終えると、私は子どもたちと公園に出かけた。
 父のように薄くなった私の頭を、肩車した次男が一生懸命に掴んでいる。



七緒よう

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