見出し画像

一皮剥けば

私は人間関係の断捨離のような言葉が嫌いだ。それは、それを言っている本人が「私は人間関係を切る側」だと認識している傲慢さに由来する。


それを実感するのは「切られる側」にまわったときである。
一方的にあなたとはもう関わらないよとされたとき、どう思うか。随分と上からものを言ってくるじゃないかという印象をまず受ける。
人間関係を自分で心地が良いと思う人間たちで固めたいのという感覚は確かに理解できる。
しかし、人間関係というのは、たまたまその「場」に居合わせただけの人間たちであって、その「場」が動けば、人間関係は勝手に変わっていくものだ。人間関係は自然消滅していくものなのだ。それをあえて断捨離するという方向に持っていくという行為には疑問を抱かざるを得ない。
断捨離という話になると、断捨離する側とされる側には明らかに負の感情の相互交換が為されるのは想像に難くない。人間関係を断捨離するというのは、人を不快にさせる可能性をはらんでいるということを自覚するべきだ。


断捨離だけではない。一方的に人間関係を切ろうとする人間たちにも問題がある。
仲違いなどをして、長々と文章が送られてきて絶縁されたことがある側の人たちは少し振り返ってみてほしい。「返信不要」という言葉で締められた文章を。一方的に負の感情をぶつけている手前、相手からの返答は一切拒絶するとは随分と良い御身分である。断捨離したその人間は、その人の周囲の関係にとどまっている不要な「モノ」ではなく、感情を持った人間であることを意識すべきだ。「返信不要」はただおのれが傷つくことを恐れて、その者の愚かな保身が姿を変えたものである。
しかもたちが悪いのは、冒頭に書いた通り、切っている側は「私の方が上」という認識が確実にあることである。人間は、得になる(自分の格を上げてくれる)相手を切ろうとはならないものだ。
人間関係を切ってすっきりしている人は、その行為によって切られた相手による負の感情をすべて受け止める覚悟があるのかと問いたい。(勿論、自分に実害がある人間関係は積極的にその場から離す努力はした方が良い)


「この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえも触れたくない」


この言葉をご存じだろうか。これは世に仏教を説いた仏陀が放った言葉である。
これは、煩悩たる性欲を排除しようとする(女を不浄なものとみなすことにより)仏陀自身のある種の試みのようなものだ。

私はこの言葉をそのまま飲み込んでしまうようなミソジニーじみた発想は持っていない。しかし、頷けるものはある。
私は、男女に関わらず、己の皮をひとつ剥いでみれば所詮は糞袋だということを、極論として一度自覚してみるべきだと思う。糞袋が糞袋を格付けするなんて滑稽である。糞の質の違いの話でもしているのだろうか。
そもそも、人間はそれぞれに社会的な肩書が掲げられており、それによって立場というものが生まれているだけで、それを取っ払ってしまえば年齢関わらずみな平等であるはずだ。
話は飛躍するが、差別というものは、それぞれの誤った優劣思想により生まれるものである。無意識的な格付けというものは、それを始める一歩手前ではないか。一度じっくり考えてみてほしい。まずは話し合うこと。そこからだ。


この文章の60%程度は私怨である。私の中の糞袋筆頭人間の一方的な理由により、私が本当に楽しみにしていたバンドのチケットを持ったまま高跳びされてしまった。人間に不満が募る。
しかし、人間を一度糞袋だと認識してしまうと、不思議なことにそこまで腹が立ってこない。糞袋に腹など立てても時間の無駄なのは、火を見るよりも明らかである。私も糞袋であるのだからなおさら仕方がない。ましてや人を糞袋呼ばわりしている私にも問題はあったのだろうと思う。
本件は糞らしく水に流そうと努力している。