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ものがたりvol.4『ぶりちゃんと彼女 』

イラスト:大貫理音『夢先案内タクシーきゃっぴい』


「ぶりちゃんは30歳 、40歳になっても『くまちゃんかわいい〜』ってやってるの?」

20代半ば、当時ルームシェアをしていた3歳年上のクリエイターが、ぬいぐるみを枕元にたくさん並べているわたしに向かって言った。彼女は同じ大学のモーショングラフィックス専攻でゼミを共にした同期で、美大の大学院にまで進み自作カメラを作ったり映像作品を撮ったり受賞までするすごいクリエイターだ。同期のなかでもこれまで生きてきたなかでも彼女は際立ってクリエイティブな存在だった。たばこを吸う女性で彼女ほどかっこいい姿をみせてくれる人は未だかつて出会わない。「ぶりちゃん」とは彼女がつけたわたしのあだ名。”ぶりっこなりちゃちゃん”という意味らしい。まったく自覚していなかったし不本意だけれどわたしはどうやら世間では”ぶりっこ”の類らしい。

「ぶりちゃん、普通はこういうこと誰も言ってくれないよ。わたしはだらしなくて自惚れ野郎の君が好きだが。そのうち誰もいなくなっちゃうよ」

そのはっきりした物言いで制作中に泣かされた何人もの同期たちから一目置かれていた彼女。なんだかんだで仲良くしていたふたりは一緒に暮らすことになった。その発端はわたしを色々な意味で縛り付けていた毒親から引き離そうとしてくれた善意からでもあり「ぶりちゃん好きだし家賃が半分になっていいわ」と彼女にとってもそれがメリットに感じたようだった。とにかく当時のわたしは彼女をクリエイターとして心から尊敬していたのでひと返事で引っ越しを決めた。
学生時代よりももっと語り合うようになって、彼女の言葉や行動ひとつひとつが目から鱗できらきらしたそれを宝物のようにたくさん集めるのが日課だった。そしてとても繊細で真面目で魂を削った制作に全振りの日常を少し案じていた。それでもしばらくはこれまで通りとても仲良く楽しく過ごしていた。

ただしこの同居生活の終わりの日は想像よりだいぶ早く迎えた。ふたりは日ごとに言い合うことが増え、わたしはニートを脱して丸の内OLになるものの生活はだらしない。誕生日に帰ってくるなと怒られ、負い目からダメ出し言われっぱなしで不甲斐なく意志の弱い「ぶりちゃん」が日々憔悴していく様を案じた中高時代の友人が自宅に迎えてくれて、わたしの荷物をまとめ半ば無理やり逃げるような形で部屋から出されたのだ。これについては主体性のないわたしにも反省すべきことだらけで、どちらの友人にも頭が上がらず今思い出すだけでも恥ずかしい生き方をしていた代償だと思っている。

それでも思い返せばきらきらを集めて楽しく過ごした思い出がたくさんある。お互いの恋や仕事について深夜から早朝まで語り明かしたこと、明け方に窓の向こうから聴こえる音に「あれはポン菓子工場の音だよ」と言われてふたり笑ったこと、わたしが夕ご飯を作って冷蔵庫に入れておくと朝ごはんのヨーグルトが冷蔵庫に用意されてメモがテーブルに置いてあって嬉しかったこと、多摩川までくだらない話をしながらお散歩したこと、彼女の生徒さんたちと仲良くなって飲みに連れて行って貰ったこと、同期の結婚式で福島まで一緒に日帰りの旅をしたこと。たった半年間に人生のターニングポイントが凝縮されているのだ。

ある日わたしが「自分が37歳で死んだ夢をみた」と突然起き上がったことがあった。ふたりの部屋は洋服タンスを境に半分に分けられた1Rで、びっくりした様子で振り返った仕事中の彼女の作業机は見える位置にあった。
その夢の自分は謎の37歳リアル設定。10年先の自分のお葬式に集まっていたみんなは笑っていた。夢が進むとどうやらわたしは死んでいると気づき、なぜか自分のお葬式を俯瞰してみていたようだ。そこには家族はいなくて、でも懐かしい同級生や週5で遊ぶ友人たちが集まって優しく笑っていたのだ。わたしの思い出話を語る人たちのなかには、自分の子どもを連れたいつかの想い人まで。

「あのひととの走馬灯までがみえてね、なぜか彼の子どもふたりと一緒に遊んでいたよ。しばらくしたら彼が子どもたちを迎えにきて、あーあんたの子かーって笑ってた」

淡々と語るわたしの話を黙って聞いていてくれた。彼女は少しスピリチュアルな人で「亡くなったおばあちゃんが心配しているよ」「死んでしまった親友は幸せになってほしいと言っているよ。だから今は目の前に現れたくないんだって」「今ねえ膝の上に子どもが乗ってる。子どもって体温が高いんだねえ」などとわたしには見えない聞こえない突飛な発言には度々驚かされていた。昔から自分の目で見えないもの聞こえないことは信じないタイプのわたしも、なぜか彼女のことは信じられた。

「ぶりちゃんが死んでしまうと思ったら泣けてきた」

わたしの葬式話を聞いた彼女はそう言って涙を流した。たしかに当時の自分は「キリが良い30歳の誕生日にとびきり楽しくて絶対にやらないことをやって最高潮に幸せだと思った瞬間に消えたい」と思っていた。(そして実際に誕生日ライブを開催してたくさんの人に集まっていただき、友人を無理やり引っ張り出しギャルバンドを組み、前に出ることをずっと拒んでいた自分も一生に一度のわがままでギターボーカルを披露するなどという余興をした)

20代までは「辛くて苦しくて自害するなんて残酷すぎる」と思うタイプで、自殺願望は全くないけれど、だからと言ってとくに能動的に生きていたわけでもなく好きなこともやりたいことも出来ずにいたのだ。その雑な生き様を彼女には見破られてしまったようで非常に恥ずかしいとさえ感じた。

わたしは「好きなことができない」というよりも、もともと「何が好きなのか」と考える余裕も選ぶ権利もない環境で育った。子ども時代にとあるテストを受けて満点を取ってしまうような直感が長けている分、心の成長が周りに比べて遅れていたのだ。(わたしと似ているという先輩からは10年は精神が幼いねと言われた)

昔からとにかくただ『普通に生きる』ということが難しい。みんなと同じように振る舞えないことが恥ずかしいので頑張れない。自分では周りと同じように振る舞っているつもりでもどこか的から外れていて、すぐに自覚すると誰にも理解されない自分が滑稽にしか見えなかった。だからこそ彼女に見破られた自分の壁も、修復する努力の仕方もわからずただ風が通り過ぎるだけの自分を受け入れ続けた日々はとても辛かった。楽しいだけじゃなかったからこそ今では忘れられない大切な記憶になっているのだとも思う。

こんなわたしも赤ちゃんの頃は寝返りを打っただけで喜ばれたのかもしれないが、大人になれば息をして生きているだけでは誰も褒めてはくれない。他人に認められない自分の価値などどこにもないと思っていた。あるときにぽろっと話をした年下の女の子からは「そんな罪悪感を背負って生きていたら自分なら引きこもります」と言われてしまった。

「根暗が引きこもったらそのまんますぎて面白くないでしょ。無理にでも明るく振る舞えば何かが変わるかもしれないし」

明るいネガティブ、もしくはポジティブな根暗が誕生した瞬間だった。

あの夢を見た頃から10年近く経って、当時想像した未来のちょっと手前にいるけれどけれど、自分の何かが変わった気はまったくしていない。やっぱり『くまちゃん』は可愛いと思うし、ついついぬいぐるみを買い集めてしまう。
だけど夜はひとりでも旅先でもぐっすり眠れるようになった。『くまちゃん』が枕元にいっぱいいなくても。明日が楽しみだしもっと先の予定はもっともっと楽しみで仕方がない。隣で一緒に歩いてくれる大切なひととずっと一緒に生きていたい。たくさんのものをつくりたい。この日々を失いたくない。生きる環境や付き合う人たちが大きく変わったことを実感する。

ただ闇雲に突っ走ってきた日々も、10年経てばかなりの場所を移動したのだ。出会って別れて手に入れて失ってぐるぐると繰り返した10年はわたし自身を根本的に変えたりはしないが、あの頃がなければ今のわたしはないし大切な過去が現在も未来もしっかりと支えていくのだ。
お葬式の夢は正夢なのかどうかはまだわからない。いつまでたっても自分の本質は変わらないし何歳まで生きるのかもわからないけれど。そんな未完成なわたしの人生に関わった人はみんな、いつでも笑っていてほしい。そう願う気持ちは昔からずっと変わらずにいる。

元同居人の彼女にはわたしのどうしようもなさから「当分ゆるさない」と言われてしまいSNSの繋がりも軒並み解除されてしまったし、今はどこで何をしているのかわからないけれど。いつかまたきっと笑って会えると信じている。それが何十年も先になったとしても。
10年、20年と歩き続ける人生では何が起こるかわからない。大切なひとと共に歩める奇跡のような今があるように、離れてしまったいつかの想い人の子どもと笑顔で戯れていた走馬灯のような未来もあるのかもしれない。わたしはあの頃に感じるべき感情を、ようやく10年遅れ分を今取り戻した。そして誰かへの感謝はいちいち意識してするものでなく、自然と心の奥から湧き上がるものなのだと知った。

20年経っても、30年経っても、ぶりちゃんは『くまちゃん』も彼女も、きっとあの頃と同じように大好きなままだと思う。「変わらないね」って彼女は笑ってくれるだろうか。

テキスト:大貫理音(ぶりちゃん)


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