見出し画像

【小品】BEFORE DAYBREAK


 空に殺される。
 と、思っている。
 朝の大風になぶられながら立つ浜の砂の色は、見上げる東雲とひとしい灰色で、そのしおからいにおいを含んだ重たい色調は、もったりと波打ちぎわまで押し寄せて、波に乗り、やがて水平線と夜明けをひとつなぎにして途方もなく大きく、広く、果てしなくなって、外敵と認識してしまうほどに恐ろしい質量を以て私の頭上を塞ぐ。

 東京に比べて空が広い、と言ったのは誰だっただろうか。確か中学時代の友人の従兄弟とかいう、私との関係性のかけらもないような人間の言だったような気がする。東京生まれ東京育ちという彼のその声に込められていたのは侮蔑だったのか感嘆だったのか、或いは無関心から生まれたただの会話のラリーだったのか、ただそれを又聞いただけの私は知らない。しかし気に入ったわけでもないのに時折思い出されては都度思考を奪うその言葉には、考察の余地があった。空について。土地について。どこにいても同じはずの時間の流れについて。なのにちがう生活について。もしかしたらあなたと私で生きている世界が違うかもしれないことについて。

 東京には5年暮らした。空は確かに狭かった。
 けれど生まれ育った田舎よりずっと『冷たくなかった』。これに尽きる。
 暮らしは豊かではなかったが却って無駄がなく、ゆえにあそびがあり、そこには人間性を培うことのできる余地があった。いくらでも人間になれる気がした。何遍でも生きてゆけるという希望の介在する脇道が豊富に在った。しかし私はそこにいられなくなった。イマジネーションが死んだのだ。

 モラハラを生業としているような語気のパートナーが「平均以上貰ってるから」と繰り返すその収入を案外簡単に越してしまった辺りからなにもかもがどうでもよくなり、自分でも意外なほどあっさりと別れたあと、誰も私を知らない土地に行こうと目指したのはありきたりにも東京で、そんな或る意味垢抜けなさの象徴みたいな街であなたと出会った。
 あなたは宝物だ。私の愚かさをまっすぐ照射するその根元からの無垢に惚れ込んだ私の、芯まで黒焦げにされた皮膚に乳液を丁寧に塗布して、飾らないでも良い素肌をくれたあなたは、割譲しても惜しくないのであろうなみなみ溢れてなお湧き出るような善性とそれに比例する美しさを持っていた。それはきっと生まれ持ったものであり、持たざる者である私はその天性に圧倒された。小指の一本まで美しいあなたの好きなところは一等その小指であって、私はその小指を握るのがくせになってしまうほどにあなたに夢中であった。その深爪の整然とした輪郭を、指の腹のなだらかで薄い肉感を、大きな関節のうえで漲ってさえいる年輪の証を、私は至上に尊いものだと愛しみ、この万感の思いを、信仰心を、シュプレヒコールに乗せて叫びたかった。

 東京より空が広いんだよ、と地元の話をするとあなたは「そんなこと、ある?」と無邪気に笑った。そんなことあるんだよと反論する私とあなたの間に在る断絶は、何故だかとても喜ばしいもののように思えた。愛は国も性別も皮膚の一枚も越境するのだと確信した。あなたの明星が如き輝きが、私の皮膚の上で瞬いて焦げ付き、変色した肌の帯びる熱が神経を伝い私の心臓に流れ込んでなんども火花をちらした。そんな発火現象の美しさを精魂こめて芸術のひとつに落とし込もうと励むことが私の生き甲斐になった。
 そんなことある?
 あるかもしれないし、ないかもしれない。そのことについて語り合うことこそ、私の欲しいもののすべてだ。

 なのに私は何故だかぽっきりと折れてしまった。ある日突然やってきたその倒壊は呆気なく、心の何処かで聴こえたその音があまりにも軽快だったことが、私を殺した。凡庸な音。もしかしたら凡庸にも足らない音。己の現在座標をはっきりと視認して、私は表舞台から去った。表舞台とは東京であり、あなたの傍らであり、私が知らないだけで広かったかも知らない空だ。
 そうして、私はこの外敵のようにおそろしい空の下、ガラス混じりの砂の上立っている。

 あなたに会いたい。
「待ってるよ」と、あなたは笑った。新幹線のホームで、あなたには泣いてほしかった。けれどあなたは空の話をしたときと同じ笑みを浮かべて明るく前向きな話ばかりをした。私はあなたが悲しいという話をしてほしかった。
 私とあなたは違う。……そんなことある?
 ある。あるのだ。あるかもしれない。そしてそれを語り合うことこそが。

 一体化していた筈の水平線と空が、赫奕たる朝日に切り裂かれて断絶していく。しかし空の色は海の色だ。きっとどこかで繋がっているあなたを想う。灰色の己に殺されないように砂を踏みしめ叫ぶ。

 恢復せよ。
 恢復せよ。
 シュプレヒコールは海風に霧散していく。叫ぶ。
 これはいつか辿り着く名作のための、駄作のひとつ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?