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そうだとは知らずに乗った地下鉄が外へ出て行く瞬間が好き

こんにちは。年末からしばらくお仕事に追われていたのですが、やっと今週で一つの山を越えることができました。余裕がなくなると私生活の手を抜いて帳尻を合わせるタイプの人間なので、これから少しずつ日常を取り戻していこうと思います。

さて、このnote・マガジンではできるだけ等身大な言葉で、私の思う短歌のことや短歌じゃないことを述べます。
いつもね、ほんと、短歌に限らずいろんなことを考え始めるとついつい気難しく構えてしまう癖があるんですけど(前回の投稿とかそういうのです)、時にはそういう緊張は空っぽにして。好きな音楽を選んだり、思い出したり、そのことを誰かに話したくなるような気持ちでお話しできればなと思います。

まだまだ進め方など模索中ですが、なにとぞ、気が向いたときにでもゆるやかにお付き合いください。

しずかなため息

今回はあまり詩情の深みに潜る気分ではないので、口当たりのよい歌を選んでゆきます。ということで、これ。

もしそれを愛と呼ぶなら永遠に続く閉店セールも愛だ /岡野大嗣「ショートホープ」『サイレンと犀』

岡野大嗣さんの『サイレンと犀』は、私が短歌を始めて2番めぐらいに手に入れた歌集です。
*ちなみに彼の最新刊『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(木下龍也さんとの共著)は未読です。ご、ごめんなさい……すごく評判よくて気になってます。

書店「葉ね文庫」さんでかけてもらったカバーが心地よくてずっと着けていて、購入してからは装丁を意識することがあまりなかったんですけど。今、撮影するためにカバーを外してみたところ、ご覧の通り色がきらきらで根源的な嬉しさがこみ上げてきました。

昔、ソフトクリームにかかってるチョコのカラースプレーがどうしても好きで、あれってぜんぜん味とかないのに、見かけるたびに猛烈に欲しがっていたんです。いつからなくても平気になったんだっけ。

装画は安福 望さんで、ブログと同名のtwitterアカウント「食器と食パンとペン」(@syokupantopen)で短歌にイラストを添えて発表なさっている方です。(『食器と食パンとペン』も書籍化されています)
岡野さんも歌集もtwitterの投稿を通じて知ったので、もうずっとこのイラストと岡野さんの取り合わせが染み付いちゃっています。温かみのある歌が多いので、とてもマッチしていると思います。

ただ、後述しますが岡野さんの短歌には実はそこそこの割合でドライな視点が含まれていて、中には冷たく空虚に感じられるものもあるんですね。そういった時々の冷たさ・空虚な寂しさも温かみのあるイラストに包み込まれて、全体としては安心する場所へ落ち着いているような、そんな印象を受けます。

脱いだばかりの体温のにおい

春だから母が掃除機かける音聴きたくなって耳をすませる /岡野大嗣 「青いキセル」『サイレンと犀』

岡野大嗣さんの歌は、季節でいうと春その次に夏の印象が強くあります。というのも、多分好きな歌がそれぞれを詠み込んでいるからなんですけど。この歌は、電車の陽射しの中で目を閉じているときのような穏やかな空気が感じられて、とても好きです。

休日のもう日が高くなった時間まで寝ていると、居間から掃除機の音が近づいてくる。私は(今も当然そうですが)昔は片付けられない子どもだったので、掃除機をかけるときには床に置きっ放しのものを机や棚や押入れに避難させないといけなくて。母が部屋に到着したときがタイムリミットなので、掃除機の音が鳴り始めると慌てて起き出したのを思い出します。あの、そわそわした気持ち。

それがなぜ「春だから」なのかというと、春には春のにおいがするからだと思います。寒さが和らいだ日の午前、思いっきり窓を開けて掃除をしていると、ぷんと香り立つ土や水のにおいがやってきます。うっとりと眠くなるような春の暖かさとにおいが、掃除機の記憶を呼び起こすのです。

岡野さんの短歌には二種類の色があって、一方は「ぬくもり」一方は(後述しますが)「冷たさ」が印象的です。そしてその前者は、火や愛みたいなものではなくて、人の体温の生温かさです

上で引いた歌のぬくもりは「母」によるものだと思っています。生身のぬくもり、それも情愛ではない方の。母の手で握られたおにぎりのような、祖母に口うつしでもらう飴玉のようなものです。語り口や情景はもちろんやさしく懐かしくありますが、そのぬくもりは単なる綺麗なだけのものではないところが特徴であると思います。

ともだちはみんな雑巾僕だけが父の肌着で窓を拭いてる /「みんな雑巾」
袖口を嗅ぐだけで眠たくなれる部屋着で過ごすうつくしい日々 /「しずかなため息」

背後に生身の肉体や、ほのかに立ちのぼる体臭をともなうぬくもり。限りなく"生"でリアルなその感触が、「冷たい」ひんやりと乾いた現実世界との対比を描いています。後者を機械的によくある感じに表現すると、"人としての尊厳が希薄になりつつある現代社会の若者像"というやつです。

レジ上の四分割のモニターのどこにも僕がいなくて不安 /「選択と削除」
満席の回転寿司は養鶏場みたいでふるえつづけるプリン /「ホワイト的な」

システム的に回っていく、気づかぬ間にシステムに回されていく世界を発見とともに描く。けっこう皮肉。だけど「どこにも僕がいなくて不安」だったり、「ふるえつづけるプリン」がちょっとシュールだったりして。

現代への痛烈な皮肉というよりは、その中に取り込まれてしずかに寂しくて疲れているんです。「満席の回転寿司」というとき、作中主体は実際に満席のどこかにいていつまでも流れるプリンを見つめているんです。きっとそうです。

私はなんとなく「現代への皮肉」「うまいこと言ったった」みたいなノリの短歌はそんなに得意ではないんですけど、岡野さんの場合はその中に「人間のぬるい体温」みたいなものを感じるので好きです。

先ほど述べた"寂しさ"や"疲れている"かんじがあって、ニヒルな観察者・批判者にはなりきれない。皮肉なんだけど時々客観視するだけでなく、それを観察している生身の温度が感じられる。それがよいと思っています。

あと、なんだろう、生身の肉体を感じる理由として、文体が生き生きしていることもあると思います。(一人称だから文体が柔軟なのか、文体が柔軟だから一人称を感じるのか……)
三人称の文章って、特に自分で書こうとすると語尾が同じものの繰り返しになって退屈になってしまいますが、一人称だとスニーカーのように自由に動き回れますよね。文体が平易で生き生きとしていて、歌の情景が身近で読み取りやすく、発見と共感と皮肉に富んでいて……本当に読んでいて飽きない人だと思います。


そうだとは知らずに乗った地下鉄が外へ出て行く瞬間が好き /岡野大嗣「そうだとは知らずに」

そういえば、岡野さんって大阪の人なんですけど、これって絶対に御堂筋線ですよね。

梅田から北の方面へ進むと、次駅を過ぎたらわりと早い段階で地上に出るので、おおっとなります。普段、梅田から利用する人だと南のなんば方面へ行くことが多いのでなかなか気づかないんですけど。思いっきり淀川をわたるので、沿線風景も地下鉄らしからぬ広々さです。

その分、東京だとメトロが平気で地上に出たり他社路線と乗り入れたりしているので、アイデンティティ!!って唸ってます。


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