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宮崎駿、庵野秀明に村上春樹。天才クリエイターの条件

少年の内面世界を描いたアニメに、普遍性を持たせた庵野秀明氏

世の中には天才と呼ばれるクリエイターがいます。スタジオジブリの宮崎駿氏やエヴァンゲリオンシリーズを生み出した庵野秀明氏などです。

天才といわれるクリエイターには、ある共通項があります。それは、極めて個人的なテーマに普遍性を持たせているという点です。

逆に、誰しもが興味を持つ、普遍性のあるコンテンツというのが存在します。例えば勧善懲悪のドラマがそうです。古くは「水戸黄門」、新しくは「半沢直樹」など、明確な悪者が存在しており、主人公たちがそれを成敗するという勧善懲悪のコンテンツです。
勧善懲悪のコンテンツは、誰しもが興味を持つ普遍性を持ったコンテンツになります。

一方、宮崎駿氏や庵野秀明氏は、極めて個人的なテーマを取り扱っているのにも関わらず、多くの人から支持をされる普遍性を持ったコンテンツを提供しています。

庵野秀明氏の代表作「エヴァンゲリオン」を、監督自身はロボットアニメであると定義しています。
しかし、アニメを観た人なら分かる通り、物語の主軸は主人公の少年、碇シンジの内面世界に置かれており、碇シンジは庵野秀明氏が投影されたキャラクターだと言われています。
庵野氏を投影した14歳の少年の内面世界というのは、極めて個人的なテーマですが、それでも多くの人たちの心を動かす普遍性を持ち合わせています。

天才クリエイターは、個人的なテーマに普遍性を持たせるための装置を使うのです。
それでは、この普遍性を持たせるための装置とは何なのか。それは「物語」に秘密があります

物語は普遍性を持たせるための装置

「物語」の役割について、心理学者の河合隼雄氏と小説家の村上春樹氏の対談の中で、河合氏が次のように語っています。

「例えば河合というけしからんやつがおった。腹立ったから怒ったという話をしてもあんまりみんなに説得力がない。河合という人は年齢をカサに来て偉そうなことを言っておったでは、「あ、そうですか」ぐらいになるわけです。

ところが年寄り怪獣カワイが現れて、後ろからおぶさってきた―、それはもう突いて殺さないと仕方ないなというふうによく分かる。それが物語なんですね。
そっちの方がリアルなんです。つまり村上さんの体験したリアリティ、本人が体験したリアリティというのがみんなに伝わるわけです。

河合隼雄 こころの声を聴く

極めて個人的な体験やテーマがあったとしても、それを口頭で話しただけでは情報が伝わるだけです。
疎遠であった身勝手な父親の命令で、14歳という若さでエヴァンゲリオンに搭乗して人類の未来を背負うことになってしまった少年碇シンジくん。このように物語として語るからこそ、個人的なテーマが普遍性を持ったコンテンツとして成立します

村上春樹氏の小説もまた、極めて個人的なテーマが設定されています。初期の作品において、だいたい主人公は30代の男性で、東京を舞台にして男性の身に起こる事件が綴られます。表層的に観ると極めて日本にローカライズされた物語でありながら、世界中で翻訳されて日本で最も人気の作家となっています。
表層的には極めてローカライズされているのに、なぜ言語や国の壁を超えて普遍性を持ち合わせたのでしょうか。

「物語」に深いところに降りて行った"内的必然性”があるか

さきほどの対談集において、河合氏は村上春樹氏の小説「ねじまき鳥クロニクル」を例に挙げながら、次のように話しています。


近代小説というのは日常レベルの意識にものすごく縛られているわけです。この世界は偶然を嫌う。例えば、偶然にうまいこといくから頑張りましょうと言ってみてもだめで、勉強したら偉くなるとか、上手にしたらうまくいくとか、みな因果関係で偶然を排除してるわけです。

小説を、この日常レベルの世界で考えて偶然をつくられたらたまったもんじゃないですよ。

ある一人の貧しい人が非常に困って自殺しようとしました。そして橋から飛び降りて、水のなかで溺れる者は藁をもつかむでパッと手をのばしたら一千万円の札束がありました(笑)。みんな、そんなの読む気なくなる。
それは意識の浅いところで考えてる偶然なんです。もっと深いところに降りていった偶然とは違うんです。ここでつかんだ偶然は内的必然性を感じさせる。それが勝負だと思うんです。

今度の『ねじまき鳥クロニクル』にも、「壁抜け」という状態が出てくるけれども、意識の下の方まで降りていったときに、これは必然的に出てくる。いわば偶然に出てくるわけだけど、それが完全に必然性を持ってるという、それが物語の要因だと思うんです。

河合隼雄 こころの声を聴く

小説「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公の男性が、現実に存在する井戸に降りる場面があります。主人公はその井戸の壁を抜けて別世界にコネクトする「壁抜け」という現象に遭遇します。
河合氏はこの描写を、意識の深いところで発生した内的必然性であると表現しています。

村上氏の小説には、このような現実とはかけ離れたファンタジックな描写が登場します。表面的に観ると日本を舞台にした成人男性の物語でありながら、世界中の人が共感する普遍性を獲得しているカギは、この"意識の深いところで発生した内的必然性”が機能していることなのです。

「物語」の偶然を、必然としてとらえられるか


このように、国を超えて多くの人から支持されるコンテンツには「物語」が装置として機能しており、そこで生じる偶然を受け手が必然と感じられるかがカギになってきます。

さきほどの「エヴァンゲリオン」シリーズにしろ、宮崎駿作品にしろ小説「ねじまき鳥クロニクル」のように、別世界にコネクトしたり、いくつかの世界線を行き来する「壁抜け」のような現象が登場します。

しかし、受け手は「そんなわけあるか」と頭では考えずに、「物語に登場する必然」として受け入れているわけです。
この表層だけではなく、深いところから発生している偶然=内的必然性を受け手に届けられるかが、天才クリエイターの条件なのです。

ちなみに、宮崎駿作品については「となりのトトロ」など、子供向けのキャラクターアニメとして表層的な筋書きをなぞることが可能でありながら、その背景には深いテーマがあるという多重構造がある作品が多くなっています(最新作「君たちはどう生きるのか」では、その表層的な筋書きを構築することを止めたので、評価が真っ二つに割れています)。

くわしくはこちらで解説しているので、興味があったら見てみてください。

ジブリに学ぶ、マスにウケるコンテンツは多重構造
https://note.com/media_labo/n/nffb4c9c4c817


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