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博士号と修士号の違いって、知への「謙虚さ」=「呪い」をかけられてるかどうか、にあると思うわけ。

私、個人的に思ってるのが、修士号と博士号の違いって、どれだけ”知”や”先人の業績”にリスペクトできるかにあると思っていて、修士号よりも博士号のほうが、なんていうか「謙虚さ」が増すように思う。

博士号レベルで研究をするということは、自分の研究領域やその関連領域の”海”の広さへの自覚を持たされるということであって、そこでは自分の知らないこと・わかってないことがとんでもなくあるという認識を持つことになる。結果として、自分自身がいわゆる”巨人の方の上に立つ”ことしかせいぜいできないのだ、という謙虚さにつながる。

また、その研究の過程で行われる議論というものは、非常に哲学的なもの含めて、修士レベルより上位な・抽象的な議論が必要とされる場合がある。そりゃそうだ。言ってみれば、一般的な修士論文数本分になることもあるわけで、つまり論文A, 論文B, 論文Cより概念的に上位のことを論じることができなければ、博士論文にはらない。

なので、どうして修士レベルの大学院を教えるには博士号所持者が必要なのか、という話になるわけだ。

一方で、修士の段階だと、そこで求められる論文の範囲というのは、具体的かつ目の前にあるものの範囲で、”自分の意見”で書けてしまう。

そして、一般大学院と専門職大学院だと院生の思考に違いがあり、一般大学院の院生の場合は研究対象を自己の外部・客体的な対象とし、そもそも”自分の経験による意見”に左右されることを防ぎやすい。しかし後者、専門職大学院においては院生当人の実務的な内容を研究対象としがちなゆえに、その対象との近さと実務における経験から来る自信から、”自分の意見”を多分に盛り込んだ論文やレポート・研究成果報告書を出しがちである。

また、専門職大学院の院生は、えてして実務と並行して通うことが多いため、授業参加・研究に対する負担は大きい。それゆえに、修了後の”やりとげた感”というのは専門職大学院の院生のほうが大きいように思う。

話を戻そう。

修士号と博士号というのは、「知」に対する「謙虚さ」の違いが態度に出るように思う、という個人的見解を述べたが、博士号は自信を持つ機会よりも、自信を失う機会のほうが多く、結果として、自分の研究領域に自信を持っていたとしても、同時に知らないことが多数あるという不安にも襲われる。そこが「謙虚さ」につながるように思う。

一方、(私の経験的に)専門職大学院、特にMBAで論文相当の提出があるところの修了生は、非常に自信を持って自己の主張を述べる人が少なくないなと感じている(※論文相当がないMBA他修了者についてそう感じる機会はあまりない)。

そうした自信を持つことは良いことに違いない。

しかし、その自信が「知」や「先人の業績」への「謙虚さ」を阻むものであるとすると、それはよろしくないほうに作用してしまうだろう。

自信によってより研究や実務を先に進める促進力にするのは良いと思うが、一方で、自信によって目を曇らせ、得られるはずであったであろう、知や知見というものを得られない機会費用の損失が発生するという恐れも、認識しておくべきなように思う。

そして、そうした「自信家」こそ、博士課程に進んでみてはどうかと思うのである(😂)

ちなみに、博士号を通じてこっぴどく身につけられてしまう「知」への「謙虚さ」は、一部では「呪いにかけられた」という言い方もしていたりします。

いや、この「呪い」、ほんとしんどいよ・・・


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