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映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』/相手への尊厳がなければそれは支援ではない

人としての尊厳。
相手への敬意。
お互いに尊重しあうこと。
それなしに人って生きていかれないんだなあ。

でもそれは、尊厳が失われる・踏みにじられるときになってみないと分からない。そのときになってようやく思い知らされる。


◆◆◆

amazon prime videoで以前から気になっていた映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』を観た。なんじゃこりゃあと仰天。
舞台はイギリスなのだけれど、日本と同じじゃないかと観終わった後しばらく放心していた。

イギリスに生まれて59年、ダニエル・ブレイクは実直に生きてきた。大工の仕事に誇りを持ち、最愛の妻を亡くして一人になってからも、規則正しく暮らしていた。ところが突然、心臓の病におそわれたダニエルは、仕事がしたくても仕事をすることができない。国の援助を受けようとするが、理不尽で複雑に入り組んだ制度が立ちはだかり援助を受けることが出来ず、経済的・精神的に追いつめられていく。
そんな中、偶然出会ったシングルマザーのケイティとその子供達を助けたことから、交流が生まれ、お互いに助け合う中で、ダニエルもケイティ家族も希望を取り戻していくのだった。


劇中では生活支援を受けるのと引き換えに尊厳が踏みにじられていく様が描かれる。主人公ダニエルはそれを拒み、彼なりのやり方で抗議する。

そうしないと何もかも失うわ
お願いよ私は何人も見てきた
根がよくて正直な人たちがホームレスに…

(それを受けてダニエル)
ありがとう
だが尊厳を失ったら終わりだ
私はダニエル・ブレイク
人間だ 犬ではない
当たり前の権利を要求する
敬意ある態度というものを

私はダニエル・ブレイク
一人の市民だ
それ以上でも以下でもない

◆◆◆

胸が苦しくなったのはケイティがフードバンクで食料を受け取っていた場面。
あまりの空腹のためにケイティは受け取った缶詰をその場で開けて口に入れてしまう。
はじめはその行為の意味が分からなかった。

本当に本当になにも食べていなくて、だから、目の前に食べ物が出されたことで、もう思わずそうしないではいられなくなってしまったのだろう。
我に返ってそんな姿をさらしてしまった自分を「惨め」だと思い、泣き崩れる姿が映し出されていた。

この涙には自分が食料を配給してもらっていること、自分が施しを受けていることへの屈辱感のようなものもあったんじゃないかな。

◆◆◆

監督したケン・ローチはこの作品をつくるモチベーションが怒りだったとHP上に掲載している。

生きるためにもがき苦しむ人の普遍的な話を作りたいと思いました。死に物狂いで助けを求めている人々に国家がどれほどの関心を持って援助をしているか、いかに官僚的な手続きを利用しているか。そこには、明らかな残忍性が見て取れます。これに対する怒りが、本作を作るモチベーションとなりました。

「残忍性」強くキツい言葉だ。
けれど、そんな言葉を使ってでも表したくなるほどのことが実際に行われていると伝えたいんだと僕は解釈した。

生活が困ったとき、支援を受ける人間は惨めさと引き換えにしなければ受け取れないようになっているとしたら。
果たしてそれを「支援」と呼べるのだろうか?
敬意も尊厳もない支援を精神的にも弱っている困窮者が受けようと思えるだろうか?


つい最近でも自分で産んだ赤ん坊を死なせてしまった女性が逮捕されたニュースがあった。この件に限らず、生活に困って支援を受けられたはずなのに受けなかったケースが少なくないように思う。
支援を受けられなかったのは知らなかった・知識がなかったから、というよりも、尊厳が損なわれてしまうような支援のあり方になっているからなのでは?

◆◆◆

ありがとう
だが尊厳を失ったら終わりだ

こう言えるのは尊厳が今まさに踏みにじられる体験をし、かつ、それに対して屈したらもう人間じゃないと思える感覚を忘れてないからだと思う。

人としての尊厳。
相手への敬意。
お互いに尊重しあうこと。
それなしに人って生きていかれないんだと僕も共鳴した。


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