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初代文部大臣 森有礼

1885年(明治18年)、旧来の太政官制(宮廷政治体制、天皇による政治)に変わって内閣制度に移行した。初代内閣総理大臣に任命された伊藤博文は、憲法制定が政治日程に上ると、自由民権派が理想的なモデルとみなしていたイギリスやフランスではなく、日本と国情が似ているドイツ・プロイセンの憲法にそのモデルを求めました。このころから、学術の面においてドイツの影響が強くなってきたと言われています。

伊藤内閣での初代文部大臣になったのは、アメリカやイギリスでの外交官の経験もある開明主義者の森有礼(もり ありのり)です。

急進的な立場から近代学校教育の整備を一手に担った森有礼は、1886年(明治19年)に「教育令」を廃して、新たに「学校令」を制定しました。これは諸学校令とも言われており、「小学校令」、「中学校令」、「師範学校令」、「帝国大学令」の4つの個別の政令でした。

帝国大学令では「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ」と明記し、学術的進歩よりも国家を優先するように求めました。国の近代化を進めるために、西欧の先進的な技術を身につけた技術者を養成しようとしたのです。中学校は、その帝国大学への入学準備を行うための機関とされました。

小学校令では、尋常小学校と高等小学校の2段階に分け、前者の尋常小学校の4年間については、父母後見人などに対して、その保護する児童を学校に就学させる規定を法律条文に明記しました。ここに日本における義務就学規定が明確になったのです(尋常小学校の代替機関として3年間の小学簡易科も設置された)。

とはいっても、公教育財政は依然、困難を極めており、小学校は授業料や寄付金を主な財源として運営するなど、「学制」の理念でもあった「受益者負担」は継続されていました。そのため、家計困窮者には就学猶予も認められていたので、義務就学規定とはいいながらも、完全な義務教育ではなく、就学率も1890年の時点でも48.93%(『日本近代教育史辞典』より)でした。

小学校の位置付けについては、天皇に忠実な臣民の育成、教化のセンターという性格が強く打ち出されることになりました。そのため森有礼は、その教育を担うための教員養成である「師範教育」にも力をいれます。

師範学校では、徹底して国家イデオロギーを注入することを目指します。師範学校に通う未来の教員に求めた資質として「順良(上司の命令に従属)、信愛(同僚への愛情と信頼)、威重(児童の行動や態度を厳格に規制する態度)」の3点でした。また、師範学校では軍隊式体操プログラムも導入され、師範学校生の全員が寄宿舎で生活する中で帰属意識や集団的規律を身につけていきました。こうして、「師範タイプ」と呼ばれる均質かつ画一的な性格を備えた教員が大量に輩出されることになるのです。
ちなみに、師範学校の生徒は卒業後、一定期間の教職への奉職が義務付けられていたものの、兵役の免除、授業料や食費の無償、衣服や雑費の支給などの特権も与えられていました。

このように、近代学校教育の礎を築いた森有礼でしたが、1889年の大日本帝国憲法発布の日に刺されて、翌日、亡くなってしまいます。

今回は、初代文部大臣である森有礼についてまとめました。
教学聖旨以来、国家主義的なイデオロギーに傾斜していった日本の近代教育ですが、森はそれを制度的にも推し進めることになりました。
一方、諸学校令に見えるように、学校教育制度の「制度としての具現化」に尽力したという役割も見逃せません。

参考文献
『日本の教育経験』 JICA 2003
『教育の理念・歴史』 田中智志・橋本美保監修編著 一藝社 2013
『教育学の基礎と展開』 相澤伸幸著 ナカニシヤ出版 2007