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国語科みたいな道徳科

「特別の教科 道徳(以下、道徳科)」の公開授業を見ていると、たまに「国語科みたいな道徳科」に出会うことがあります。そもそも国語科と道徳科には共通点がいくつかあります。

①どちらも「読み物教材」を用いる
②どちらも教科書が「縦書き」である

この二つによって、道徳科の授業は「国語のような授業」になりがちです。では、「国語科みたいな道徳科」とはどのような授業なのでしょうか。それは、一言で言い表せます。つまり、「読み物教材」の内容を読解するということです。

たしかに、読み物教材が授業の導入に使われていることもあり、授業前半には「読み物教材の内容」を扱うことにはなるでしょう。今日の授業のテーマは何なのか、今日は何について学ぶのかという「指針」という役割が「読み物教材」にはあるので、これは必要です。

一方、道徳科の授業において、いつまで・どれくらい「読み物教材」に留まるのかというのは、道徳科の授業においては大切な点です。最後まで「読み物教材の内容」に留まってしまえば、それは学習指導要領の「特別の教科 道徳」の「第1 目標」にもある「自己を見つめ,物事を多面的・多角的に考え,自己の生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる。」という部分が弱くなってしまいます。

つまり、「読み物教材」の主人公の気持ちには寄り添えても、それを「自己の生き方についての考えを深める学習」にまでは落とし込めないのではないか、ということです。仮に、読み物教材の主人公の気持ちを理解することをもって道徳科の目標が達成されてしまうのであれば、それは、国語科の物語文の読解でも十分になってしまうわけで、いやむしろ、道徳科の文章に比べれば、洗練された文章とも言える国語科を学べばいいじゃないかともなってしまいかねません。

道徳科を国語科にしてしまわずに、いかに道徳科たりえるのかを考える上で大切な点が、まさに「自己の生き方について考え」るような学習活動なのです。

では、具体的にどのような授業をすれば「国語科みたいな道徳科」から脱却できるのかとえば、それは簡単で「さっさと読みの教材から離れてしまう」ということですね。

先述した通り、読み物教材には「授業の指針」という役割があるので、それ抜きというわけにはいかないのですが、指針さえ示すことができたら、読み物教材の役目はほとんど達成されたわけですので、さっさと「児童たちの日常世界」へと授業の中心を移せばいいのです。

少し脱線しますが、この読み物教材の音読を「誰にやらせるのか」という議論も道徳科の授業づくりではよくあります。さまざまな立場があるでしょうが、僕は「教師による音読」を進めている立場です。それは、これが「国語科ではない」という点と「内容理解を捗らせるためにも、教師による聞きやすい音読」の方が適切だと考えるからです。一つの文章を繰り返し学ぶ国語科と違い、道徳科の教材文は「初見」かつ「一回限り」の文章です。それをスムーズに理解しやすいように澱みなく読むというのは、児童にとっては困難でしょう。国語科ではない以上、「読み」の学習という部分を意識する必要性も少ないので、教師が音読をしてあげたらいいと思います。

読み物教材をざっと読んだあとは、内容読解をリズムよく済ませて、今日のテーマを学級全体で確認したら、「みんなは、この〇〇さんみたいなことがありましたか?」と主題を「読み物教材」から「児童たちの日常世界」へと移してあげたらいいのです。

もちろん、適宜、読み物教材へと戻ることもあるでしょう。それでも、そのときも「児童たちの日常世界」には片足を置きつつという意識は大切です。読み物教材も「児童たちの日常世界の一つ」と捉えてもいいかもしれません。

道徳には「道徳的諸価値についての理解」という重要な目標があります。これは「徳目主義」と揶揄されてしまいがちでもありますが、確かに重要な目標だと感じます。

例えば、「善悪の判断」というのは典型です。子どもたちにとっては「自分が不快なことは悪」という感覚は自然です。指導要領における低学年の「善悪の判断」の「内容」には「よいことと悪いことの区別をし,よいと思うことを進んで行うこと。」というのがあります。もちろん、それは大切なことですが、例えば、日本文教出版の2年生『生きる力』にある「るっぺどうしたの」という教材に登場する「るっぺ」は周りに迷惑をばかりかける人物として描かれています。それだけを読めば「るっぺ」は「まぎれもなく悪」であり、それは「非難されるべき存在」です。しかし、「るっぺ」のように「ついつい周りに迷惑をかけてしまう子」というのは、どこにでも存在します。それは「ついついキツイ言い方をしてしまう子」だったり「ついつい手が出てしまう子」であったりします。みなさんも一人くらいはそんな「るっぺ」みたいな子が浮かぶのではないでしょうか。

この「るっぺ」を悪として断罪することは簡単です。実際、僕が行った授業の前半部分は子どもたちによる「るっぺ非難」になりました。しかし、この話を「るっぺ非難」で終わらしてしまうのは、「いじめ容認」にもなりかねない危険なことではないでしょうか。

「悪は非難されるべき」というのは「自分の嫌がることは人にしてはならない」という典型的な「黄金律」です。しかし、一方で、先ほどの例のように学級に一定数いる「ついつい周りに迷惑をかけてしまう子」を問答無用で「悪」にしてもいいのでしょうか。そういう「マイノリティへの無理解」というものが、まさに同質性の高い日本の学校文化における「いじめの要因」なのではないでしょうか。

そこで、僕は授業の後半は「るっぺの気持ちを考えよう」という授業方針に切り替えました。「加害者側の気持ち」を考えるということですね。すると、子どもたちはるっぺの気持ちを想像しながら、「周りがみんな敵に見えると思う」とか「自分なんていらない存在に感じる」など、上手に言語化してくれました。

子どもは大人と違って、未成熟だからこそ「子ども」なのです。だからこそ、「悪」だと切り捨てるのではなく「それでも共生していく方策」を考え出せたらいいのかなと考えています。もちろん、それは「黙って殴られろ」ではありません。あるべき社会の姿とは、「悪を無批判に非難」すると「黙って殴られろ」の中間のどこかにあるのではないかと、そういうことを考えるのが、まさに「善悪の判断
」なのではないでしょうか。

そして、この授業においては「国語科みたいな道徳科」でも良いと付け加えておきます。「るっぺ」を「学級の誰か」に置き換えてしまうことは危険だからです。倫理的問題を扱うときには、有名な「トロッコ問題」をはじめ、「ありえないけど悩ましい場面」が採用されます。そういう使い方もあるのです。