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【リヨン留学記】10話:食い逃げ事件

 語学学校では毎週「リヨンの街案内」だとか「リヨンの壁画を見にいこう(リヨンには巨大なだまし絵の壁画がある)」だとか、放課後学生を集めた行事が行われていた。イベントが毎週壁に張り出され、参加したかったら一緒に貼られた名簿に名前を書き、人数が集まったら催行されるという流れだ。
 授業の合間に暇つぶしがてら眺めてみたけれど、毎日毎日勉強と仕事と慣れない環境でつかれていたから、特に参加するつもりはなかった。
 けれども家に帰ると、なぜかオディールが「今週はどんなイベントがあるの?」と訊いてくるのである。どうやらオディールにとっての楽しみらしい。もちろん参加できるのは生徒だけだけれど、3人も子どもを育てると学校行事に興味を抱くことが体に染みつくのかもしれない。何度か学校帰りにダイニングキッチンでオディールとハーブティーやお菓子をつまみつつ「ワインの講習会とかあるみたいだよ」とイベントの内容の話になった。けれどわたしは別段興味がなかったのでそこから話題はひろがらなく、一晩寝たらそんな話をしたことすら忘れてしまっていたように思う。
 そんなある日のこと、学校から帰って部屋で休んでいると、コンコンとドアをノックされた。開けてみるとオディールがいて「紙を見せてくれ」と言う。「紙って?一体何の?」と詳細を訊くと、学校のイベントの案内が載った紙が見たかったらしい。わたしはオディールがそんなにも学校行事に興味があることに驚きながら「ごめんなさい。壁に貼ってあるのを見ただけだから、わたしは持ってない」と言うと、とても残念そうな顔をして去って行った。その後も何度か「今週はどんなイベント?Megumiは行かないの?」と訊かれ、日本人らしく空気を読むのに慣れているわたしはなんだか居心地のよくない気持ちだった。そしてオディールからの無言の圧力に根負けし、留学ももうおわろうという最後の金曜日にイベントに申し込むことにしたのである。
 内容は、フランス産のワインとチーズの講習会である。
 人によっては「なんて楽しそうなイベント!」と喜び勇んで行くかもしれないけれど、わたしには不安があった。わたしはお酒の味は好きだがそこまで強くないのである。3杯くらいが限界な上に、雨が降って気圧が下がる日は悪酔いしやすく、最悪の場合倒れてしまうときもある。東京にいるときですら何度か電車の駅の医務室にお世話になったことがあるわたしがよりによって異国の地でたった一人、どうしてワインの講習会になんて申し込んでしまったのだろうか。不安がよぎらずにはいられない。そして予想どおり、ちゃんと事件は起きたのである。
 さて当日、夕方頃までは晴れていたが、神さまは何を思ったか夜に雨を降らせはじめた。わたしがリヨンに来て、はじめての雨である。しとしとと髪を濡らすもの悲しい雨で、街灯に照らされながら揺らめくように光る石造の橋はロマンチックではあったけれど、わたしにとってお酒を飲みに出かける日ではないと告げていた。
 講習会は夜の7時からだったので、一度家に帰ろうかとも思ったが、めんどうではある。
 結局学校の近くのカフェで宿題やら仕事などをこなし、さて頃合いだしワインショップまで出かけようと思ったときに、現金を持っていないことに気がついた。講習会の案内に現金での支払いと書いてあったため、用意が必要だったのである。そこでまずはデビットカードなどで現金を引き出せるATMを探さなければならない。だがワインショップに行く途中にあるだろうと思いながら電車に乗らずロワール川沿いを結構な距離を歩いたというのに、一向にATMは見つけられなかった。そこでもっと街中に入って探してみるべきかもしれないと思案しはじめた。けれども今度は講習会の時間に間に合わなくなってしまう。何を優先させるべきなのかなんだかわからなくなり、雨がそぼ降るなか少しばかり途方に暮れた。まぁでも仕事ではなくお遊びだし、遅刻したっていいや、と決めたわたしは遠回りだとわかりつつ街中に入ることにした。そして無事ATMを発見し、現金を引き出すことができたのである。
 さて、そのまままたロワール川に戻り、川沿いをどんどん北上してワインショップを目指した。ところがこれが想像以上に遠い。途中煌びやかなアパレルショップやレストランが並んでいた街並は表情を変え、人っこ一人いない道に出た。雨のせいで先の景色は朧な輪郭をしており、車の音も遠い。街灯もまばらで、じわじわとわたしの心は闇に飲まれ、なんでこんなことをしているのだろう、という気持ちが芽生えてくる。
 こんな重い足取りで「ワインとチーズの講習会」なんていうハッピーな催しに参加する人間が、未だかつていただろうか。しかも自分で申し込んだのである。
 苦行のような暗澹たる気持ちを抱えながらも、わたしはワインショップにたどり着いた。雨の中歩きまわり体が冷えていたから、窓から漏れたオレンジの灯りを見るなり心はほろりと解け、心底安心した。
 中に入ると白壁のこじんまりした空間が目の前に広がり、樽の上に幾本もワインが並んでいた。そして奥の方にもう一部屋あるのが見え、そこでオーナーだと思われる髭の生えた男性が誰かに向かって話している。
 わたしは裏路地を歩く猫のようにそろそろと奥の部屋に入って行った。彼は途中でわたしに気がついてくれ、目配せで「奥に入って」と合図した。部屋に入るとホワイトボートを正面に長テーブルが置かれ、まるで貴族の晩餐のようにテーブルの脇に生徒たちが十人ほどずらりと座っていた。わたしは最後に到着したため、飲み会で誰もが敬遠するいわゆる「お誕生日席」に通された。一番遅れたくせに最も上座である。そして
「Megumiが来たから全員揃ったし、じゃあ飲みはじめようか」
 と、言われ、「え?」と一瞬体がかたまった。わたしを持っていたですって。そんなことしなくて良いのに。恐縮な気持ちがふつふつと湧いたが、生徒の目線が一斉に遅れてやってきたジャポネーゼに向いた瞬間になんだかおもしろくなってしまい、みんなに向かってへらへらと笑いかけた。
 この後、白ワインから赤ワインまで計5杯くらいのワインがまわってきた。それとともにオーナーがワインの産地の紹介をしてくれていたのだが、内容をちっとも覚えていないし、全部飲んだのかそれとも残したのかどうかもまったく記憶にない。とりあえず鞄に入れて来たペットボトルの水をたくさん飲んだのだけは覚えている。
 他の参加者と世間話をしながらチーズをつまみ、そしてワインを飲み、2時間くらいで講習会はお開きとなった。
「良かった、倒れなかった」というのが最初に浮かんだ感想だ。そしておわった途端に花の香りをかいで酩酊した蜂のようにふらふらと店を飛び出したのは、この日を最後までやり遂げたという解放感からくるものであったと推測している。
 さて、しかしこれでおわれなかったのがこの日である。家までの半分くらいの距離を歩いたところで、重大なことに気がついてしまった。お代を払っていない……!
 頭の中で自分の行動をリプレイしてみる。
 ワインショップに入り、席につき、談笑しながらワインとチーズとパンをお腹いっぱい食べ、「じゃあね〜学校でね〜」なんてみんなに声を掛け、ふらふらっとお店を出た……。やっぱりお金を払っていない。
 酔いなんてすっかり覚めて青ざめた。よりによって異国の地で、人生初の食い逃げをするなんて。戻ろうかとも思ったけれど、さすがに今から戻ってももう誰もいないかもしれない。そこでここは一旦家に帰り、早急にワインショップ宛に「お金を払っていないこと」「明日の午後お金を払いに行きたい」ことなどをメールで送ることにした。
 次の日の午後、返信があった。
「そうそう払ってないよね。お店まで来てくれるんだね。待ってます」
 このような文面が送られて来た。そこでわたしは学校がおわってから再度ワインショップへと足を向けた。
 お店に着くなりいたずらをしでかした犬のように頭を下げ気味にし、様子を伺いながらワインショップに入った。
 そして奥に行くと、オーナーがわたしに気がついてくれた。
「ごめんなさ〜い」
 日本にいたときの癖で自然と手を合わせながら、目が合うや否や彼にそう言った。
「おわったら貰おうと思ってたんだけど、あれ?Megumiいない!ってなったよ」
 と、彼は朗らかに笑っており、オーナーの優しさに救われたわたしはきっちりユーロを払い、これにて食い逃げ事件は落着したのである。それにしても、せっかく昨日現金を手に入れるために雨の中歩き回ったというのに、結局お金を使ったのは今日である。なんだかなという気持ちを抱えながら、外に出てみるとそんなわたしの湿気た気持ちなど吹き飛ばしてしまうほどのすがすがしい青空がひろがっていた。
 余談だが、次の日オディールとヘンリに「昨日はどうだったの?」と訊ねられたので、「楽しかったよ。ロワール川沿いのお城で作られたワインとかを飲んだ」と唯一覚えていたと言って良い産地の知識を説明した。そしてさらに気を遣ったオディールが「チーズは何を食べたの?」と訊いてくれたのだが、残念ながらやっぱり何ひとつ思い出せない。そして捻り出した答えが「カマンベール」である。その時の2人の判然としない表情といったら…… 。
 わざわざリヨンまで来て「ワインとチーズの講習会」に参加し、覚えているのがどこにでもあるカマンベールとは、我ながらなんとも情けない結果である。

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