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【リヨン留学記】9話:リヨンはおいしい?-夜ごはん編-

「À Table(ア・ターブル)」と呼ばれる瞬間が、留学中一番の楽しみだった。
「À Table」というフランス語を直訳すると「テーブルに」だが、「ご飯ですよ」と呼ぶときの言葉である。
 留学中は朝ごはんと夜ごはんをオディールが用意してくれていた。そのため午後7時頃になるとオディールがわたしの部屋をノックし、「À Table」と言うのである。
 部屋では大体仕事や勉強をしていたから声をかけられても頭がうまく切り替わらず、なんだか忙しない気分になることもあったけれど、ダイニングキッチンへ行って湯気の立った鍋やサラダやパンなんかを見ると、すっかり頭の中はご飯のことでいっぱいになり「今日のメニューは何?」と前のめりになって鼻をふんふんいわせてしまった。
 さて、メニューはというと、実にさまざまだった。リヨンの名物だと「リヨンはおいしい?」でも書いた「Quenelles(クネル)」という白身魚のすり身を円ずつ型にしてオーブンで焼いた後にソースをかけたものや、その他にも「Saucisson chaud(ソシソン・ショー)」と呼ばれるソーセージをスライスしたものにソースと細かく切った野菜を添えたものなんかを作ってもらった。ソーセージはウォーカーのショートブレッドほどの直径と厚みをしており、中にはピスタチオが入っていてコリコリとした食感を楽しむことができる。ピスタチオ入りのこのソーセージもどうやらリヨンの名物らしい。
 その他にも白菜のような葉野菜をロースハムで巻き、チーズの入ったホワイトソースで煮込んだもの、野菜のポタージュ、チキンカツレツ、シャンピニオン入りのチーズにわたしの顔くらいの大きさのハム、その上パンとお米(日本のお米と違ってサラサラした食感。インド米のような感じ)さらにはオディールお手製のガトーショコラやプラリネのタルトなんかをデザートに出してもらい、毎晩毎晩胃がパンパンになるほど食べていた。ちなみに真っピンクと言ってしまっても差し支えがないほどの鮮やかな色をしたプラリネのタルトも、リヨンの名物らしい。最初見たときはフランボワーズか何かが入っているのかな?と思ったけれど、どうやら赤い着色料を加えて作るのが伝統らしいのである。リヨンの旧市街なんかに行くと、ショーウィンドーに「brioche à la praline(ブリオッシュ・ア・ラ・プラリネ)」と呼ばれるこれまたアメリカ産のグミのような目が覚める色のプラリネがくっついたパンが積み上げられているのを見ることができる。はじめて見たときは得体の知れないショッキングピンクのパンを訝しげに眺めたものだが、名物だと知って観光客が来る旧市街にこれでもかと積まれている光景に納得がいった。
 オディールのご飯を楽しみにしていたのはもちろんわたしだけではない。ヘンリは「ここのご飯はどのレストランよりもおいしいからね」と冗談半分本気半分な面持ちでわたしに語りかけた。これに関して、わたしは全く異論はない。オディールのご飯は「早く家に帰りたい」と思ってしまうほどどれもこれも本当においしかったのだ。さすが子ども3人を育て上げた母である。
 さてある日のこと、夜ご飯を食べるためにわたしがダイニングへ行くと、ヘンリが丸いプレートを滑らかに左右に振りながら唄っていた。目をまん丸に見開きながら「Escargot♪ Escargot♪」と今にも踊り出さんばかりの陽気さである。
 この日の食卓は「les escargots à la bourguignon(レ・エスカルゴ・ア・ラ・ブルギニョン)」だった。ニンニク・パセリ・バターをエスカルゴに詰めてオーブンで焼く日本でも有名なあの料理である。
 どうやらヘンリはエスカルゴが好きらしく、いつもの何倍も楽しそうだった。そして「日本ではエスカルゴを食べないだろう」と得意げである。
 わたしも日本人の多くがそうであるように、カタツムリと聞くと梅雨の時期に紫陽花の上でぬめぬめと動いているあれが浮かんでしまい、小さい頃は「フランス人はそんなもの食べるの?」と驚いたけれど、今では巻貝などとあまり変わらないものとして認識し、好物のひとつになっている。
 それにしてもニンニクとバターの味付けなんて、どうしたってワインが欲しくなってしまう味である。ところがオディールもヘンリもわたしが留学中、一回も飲酒をしなかった。さて、では彼らが食事中に何を食べていたのかと言うと、オディールは水、そしてヘンリはダイエットコカコーラである。
 一度わたしとオディール、そして別室を借りていたもう一人のスペイン出身の女性留学生とコーラの話になった。ヘンリがいつも通り冷蔵庫からコーラを取り出してコップに注ぎ、去って行ったところにみんな居合わせたのである。そしてオディールが「あなたたちは、コーラ、好き?」と無表情にわたしたちに訊いた。わたしもスペイン人留学生も、少しの間真顔になった後、「飲まない」「飲まない」とこれまた特に感情を込めずに口々に答えた。そこにいる全員が無言で「何だったら嫌い」と顔に出てしまっていて、とても愉快な瞬間だった。


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