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わたしをつくってきたもの


大人はアホないきもの


中学3年の時。わたしはこう考えていた。
世の中では一般的に、高校を出て、大学を出てなるべく安定した企業に就職し、生活に不自由なく、いつか結婚し、子どもを産んで、家を買い、車や犬を手に入れ、よい教育を子どもに施し、仕事に於いても出世を果たし、尊敬を集め、慕われ、そこそこの資産を築き、海外旅行に行き、歳をとって子どもに気遣われ、そこそこの資産を子どもに残して死んでいく。テンプレ化された幸せはこれだと、そう思っていた。

まず、18歳から22歳まで、大学で何をするのかということを知る手掛かりがなかった。大学で何かを熱心に学んだ人が周囲にいなかったし、母親が女の子は高校まで出れば充分と言ってのける人だったのもある。わたし自身、本能的に4年間を、特に目的も見つからないまま、無意に過ごすということは全く考えられなかった。その4年間は、おそらく人生でも重要な時間になるにちがいない、そう思っていた。

目的を持って、何かを熱心に学ぶ。その決断を高校卒業までにしなければならないとしたら、余程、日頃から自分を含めた周囲の人間や社会に対して、疑問を抱いていなければならない。なぜ人は、理解し合うことが出来ないのか。なぜ世界は平和にならないのか。なぜ学校はつまらないのか。仕事を選択するにはまず、欧州のように高校を出て一年程、世界を知るために周遊する期間が必要だ。


わたしの父親はいつもドキュメンタリーを観ていたのだが、とくにNHKスペシャルは欠かさなかった。中学2年のある時、地球の温暖化現象を特集した番組が放送され、一緒に観ていたわたしは背筋が寒くなったのを覚えている。アフリカのサハラ砂漠にある、チャド湖からみるみる水が減り、緑が失われていく様子を目の当たりにした。泣きたい気持ちで一杯になった。

丁度、巷では使い捨てがもてはやされ始めた頃で、衛生的で便利で手間いらず、そんなキャッチフレーズが TVから頻繁に流れた。ちょっと待って。便利で手間いらず?だけどゴミ出るよね?そのゴミって、溜まる一方だよね?燃やす一方だよね?ゴミが勝手に消えてなくなるとでも思ってるの?大人、ダイジョウブ??

子どもは皆、大人がアホに思えて仕方がない。実際そうなのだから、仕方ない。わたしも遂に、アホな大人の一人になってしまったが、アホはアホなりに、おかしいと思うことに中指を立て、日々もがいている。

大人、ダイジョウブ?と感じた、中学の頃からわたしの根本は変わっていない。おかしいことをおかしいと知りながら、一体どれだけのことをしたんだと振り返ると、大したことは何もしていない。なのでアホな大人に成り下がっている。

さて今日は、自分をつくっているものが何かについて書き留めておきたい。人それぞれ、自他ともに、自分を自分たらしめているものがあるだろう。それはきっと複雑で、単純に言葉で割り切れるものじゃないように思う。わたしはそれがいいし、それでいいと思ってる。

経験からつくられるもの

商業高校を卒業してから、名古屋のある小売業に就職した。
4年間、目的もなく、大学で過ごすことを考えた時、実際に社会に出て仕事をする方が、どれほど有意義だろうと思った。幸か不幸か親も先生も、進学して優良企業に就職することが、幸せへの近道だとも言わなかった。実家が自営業(ほどんと自由業)だったこともあるのかもしれない。だから、なるべく早いうち、若いうちに、社会のことや自分以外の色んな人間のことを知りたかった。

新卒で入社した後、数年後に退職し、結婚出産、離婚、仕事復帰、ときて、ようやく今、やりたいことを少しずつやれている。日常の些細なことにも幸せ、ありがたみを感じられている。わたしは今年で50歳になる。思い返してみると、経験則やそれで得られる知恵、直感をずっと大切にしてきたと感じる。

学問は、社会の仕組みをつくる有能な人間に、欠かせないものであるだろう。しかしわたしはどちらかというと、古い体制を壊す人間だ。既に意味を成さないもの、悪しき風習、権力だけにものを言わせる、誰もが幸福であることが困難な経済と政治、そういうものに、いつも心で中指を立てている。つまり、既存の世界を保ち、継続し、力と力を交換する為にある学問には用がない。

人間が世界を肯定的に引き継ぎ、人生を豊かに過ごすことには何のためらいもない。しかし今は、世界が、世界と人間を、決して豊かにはしない仕組みで回っている。わたしはそんな世界を肯定的に引継ぎたいと思えない。

人は誰でも、これまでの自分の経験で得たことに、自分なりの解を持っている。わたしのそれはとても柔らかく、つねに揺らいでいる。この柔らかく、つねに揺らいでいる解で、人間は出来ている。

経験と解をなぞってみる

古典には多くの教えがある。
最近の流行、共通する話題というのは、小川を流れる水と同じで、目の前をサラサラと通り過ぎやがて海に辿り着く。古典とは、海だ。そこにはすべてがある。豊かな栄養、命、畏敬、美。だけど多くの人は海ではなく、流れる水を必死にすくいとろうし、小川に手を突っ込む。古いものに魅力や価値を感じないのは、非常にもったいないことだ。今ある教えの源は、すべて、海である古典に始まる。現代はそれを飾ったり、気取ったりして、食べやすくしたものが氾濫しているに過ぎない。

もちろん本のすべてが学問ではない。しかし、学問=今の社会で地位や力を得る、もしくは、人に影響力を与えられる人物になる、その一端を担っているのはまちがいない。わたしはこの社会で、成功しようと思うことに何の疑問も否定も抱かない。ただ、自分とは異なる生き方だな、と思うだけだ。

半世紀生きてきて、大切だと思うことが一つある。それはすべてを、自分の内側と照らし合わせる、ということ。どこかの有力者が発した言葉も、情報も、古典などの本や文学も、どんなことも、自分の内側にある一つの鏡に、照らしてみること。わたしやあなたは決して、他の何者かではない。

本や学問が、わたしやあなたをより善く導いてくれることはあっても、本や学問に、わたしやあなたの代わりは出来ない。これまで経てきた経験の中にこそ、光を放つ鏡があるのだ。そこに先人の知恵を照らしあわせることで、更なる気付きと勇気をもらうことができる。

ここでいくつか古典を載せます。
数行の中に、感じ入るものが膨大にあったりすると、まったくページが進まなくなるのですが、、きっと何度も読み返すだろうと思います。

おすすめ古典哲学

紀元前に生きていた人の本を、今読めることが、普通に驚きでしかない。2000年以上、受け継がれてきたというのは、この教えが必要だと、あらゆる時代の人が考えたのだから。著者、江國香織、村上春樹などと一緒に、アリストテレスが本屋に並んでいることは、わたしたちにとって、非常に幸福なことだ。

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