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センスがいい人って、天才でも秀才でもなかった

センスとは知識のことだと思っていた。
努力をして、たくさんのことを知ればセンスが良くなる。そう思ってたからたくさんの本を読んだし、たくさんのものを見るようにした。天才じゃないから秀才になれるように努力した。
だから「あなたはセンスがいいから羨ましい」と誰かに言われるとムカついた。
「センスを生まれもった才能みたいに言わないでよ。あなたが努力をしなかったことを正当化するために私の努力をなかったことにしないでよ」って思った。
でもね、センスって天才が持つものでも秀才が持つものでもなかった。

とある有名なクリエイターさんがこんな風なことを言ってた。
『「感情を知っている」っていうのが作品を作る上で大切なんだ。悪役のような人生を歩んでいるような人を「私にはそんな感情わからない」と否定することは簡単にできるけど、でもそんな悪役だってがんばって生きてる1人の人間だからいないことにはできないし、私はしたくない。そういう人にも届くようなものを作れたらいいなって思うし、闇にも光にも届く作品だったら素敵。たくさんの感情を知って「あ、私この感情知ってる」って思えるようになれば、たくさんの人に届くものが作れるよ。たとえば、空を見て「泣きたくなるような夕陽」って思って、もしそれを口に出したら、バカにされて笑われるかもしれないけど、恥ずかしいとか思わずに、それを感じとれる自分を誇りに思った方がいいよ。そう思える方がセンスがいいし、いいもの作れるよ』

つまり、"センスがいい"とは、"多くの感情を受容し共感できて、豊かな感性を持っている自分を信じて誇れること"なのだろう。

センスとは、決して独りよがりではない優しさへの自信のことをいうのだろう。
優しさは生まれもったものじゃない。努力だけで育てられるものでもない。努力と環境と少しの運が必要だ。

その言葉を聞いてから私にはそんなセンスないと思って、すっかり自信をなくしていた。
だから、小説や映画をたくさん観るようにしようと思ったし、たくさんの人と関わろう思った。

でも、私は多分ちゃんとセンスを持っていた。

その日は心地良い暖かさの太陽が雲の隙間からキラキラしていて、満開の桜から花びらがヒラヒラとワルツを踊るように舞うウキウキするような春だった。
ふいに私は思った。「死にたくなる感じの天気だな」と。
嫌なことがあったわけでもないのに、そう思いながら駅に行ったら、電車が止まっていた。どうやら誰かが人生を終わりにしたらしい。

改札口の「人身事故のため運休」という赤い文字を眺めながら、「あ、そうだよね」と思った。
「今日はそういう日だよね」

今までにない不思議な感覚だった。
顔も知らないその誰かに少しだけ寄り添える心を持っていたことを誇りに思った。予言が成功したみたいな嬉しさを感じたし、故人を偲ぶべきその状況化で少しだけ嬉しくなってしまった自分に嫌にもなった。
もし、その人と私が友達だったら、その人は私に相談してくれたかもしれない。そしたら、その人の人生は今日終わらなかったのかもしれないと悔しい気持ちにもなった。

弱さを受け入れてその弱さを堂々と表現する。
私にはできるかしれない。
また誰かの人生を終わらせないために、自分を信じて作品を作ろう。
届けられれば、その人の人生を良い方に少しだけ変えることができるかもしれない。
それが私の素敵なセンス。

いつもお付き合いいただきありがとうございます。