君はもういない

私が初めて心の底から惚れたのは
クラスのかっこいい男の子でも
近所の優しいお兄さんでもなくて
ぼくのりりっくのぼうよみだった。

彼の声と言葉のセンスに衝撃を受けた。
そして彼は辞職という名の死を選んだ。
それからもう数年たっているのだけれど
ふと、彼の死は自殺か他殺かが気になった。
独断と偏見で結論を出してみようと思う。
それと私の私情と想いも添えておくことにする。


ぼくりりとしては通夜・葬式(ラストライブ)を執り行っているが、彼はたなかという名で今も生きている。

まず、たなかとぼくのりりっくのぼうよみは同じなのか?
これに関しては別であり同じであるとしか言えない。
全く同じであるならぼくりりが死ぬ理由はないしたなかの存在意義もない。
ただ、身体が魂を宿す器だとすると、彼の身体はぼくりりとたなか両方の器となるから同じであると考えられる。
けれど二重人格のように完全に違う人格ではない。
大部分は同じ人格から形成されていて、そこからアーティストであるぼくりりとしての生き方、それを捨てたたなかとしての生き方、思考があるのではないかと思う。
例えるならウィトルウィウス的人体図のような感じだろうか。

では、ぼくのりりっくのぼうよみが亡くなったのはひと一人が亡くなるのと同等なのか?
私は同等であると考える。
アーティストとしての彼が心の底から好きだったし、私の人生に少なからず影響を与えてくれた人物が消えてしまう悲しみと喪失感は決して軽いものではなかった。
その後たなかとして生きていたとしても、だ。
もうぼくりりの新曲は出ないしライブもない。
たなかとしての彼といつかどこかで会うことができたとしてもそれはたなかでありぼくのりりっくのぼうよみではない。
見た目は同じでも中身が完全にぼくりりではないのだからもう二度とぼくのりりっくのぼうよみに会えないという点においても、彼の死は重い。

では彼の死は自殺か、それとも他殺か。
ぼくのりりっくのぼうよみ自身が辞職という選択をしたのだから自殺である、と率直に私は思った。
ただ、彼がそこまでの選択をした原因が周囲の過度な期待によるものだとしたら。
周囲の期待に応えてぼくりりとして、天才として生きるのに疲れて辞職を選んだのだとしたらそれは自殺ではなく他殺ではないか?という疑問が湧いた。

彼の本音はもう聞けないのだから本当のところはどうかわからない。
けれど彼が歌うことを愛していて、彼自身を嫌いでなかったことを願いたいし、そう信じたい。

たなか氏が、全て捨てても幸せでいられる。というようなことを何度か書いているのを目にした。
真意は不明だが、もし身を持ってそのことを証明するためにぼくりりを捨てたのだとしたらとんでもない計画性と勇気だ。
それはそれで悲しい気もするが、そんなのは私の身勝手な事情であり、彼には微塵も関係のないことだろう。

いくら相手が手の届かないアーティストだったとしても、都合の良いように綺麗な部分だけを見て愛でて、自分の理想にそぐわないところは見てみぬふりをするか徹底的に叩き潰す、なんてことをされれば誰だって気分が悪い。
自分がされて嫌なことは人にしてはいけません。
そんな簡単なこと、小学生でも分かるだろう。
それなのにいい大人が寄ってたかって彼を批判した。
そこに更に油を注ぐような発言をした彼にも非はあるのだろうが、いくら影響力があるとはいえ、一対数百人、数千人となれば彼の心の負担は計り知れない。

私はそれをただ見ていた。
ぼくのりりっくのぼうよみが崩壊していく様を。

彼の信者ではないし説教をする気もない。
ただ、彼の声と音楽を愛していただけなのだから。

自分の人生に爪痕を残すほどのアーティストの思考や中身を知りたいという興味はもちろんあった。
けれどたとえ彼の性格や思考がどんなにねじ曲がっていたとしても私は彼の音楽を変わらず愛していただろう。

好きなものは好き。ただそれだけ。

見た目がどんなに不味そうでも味が良ければいい。
どんなに不格好でも誰も手に取らなくてもいいものはいい。
それと同じで、どんな性格だろうが何千人を敵に回そうが彼の音楽は間違いなく素晴らしいし、それに惚れたことを後悔することも離れることもない。
それは彼がいない今でも変わることはない。
もう更新のされない曲目を見ても、何年経っても、ずっと好きでいると思う。

あわよくばもう一度彼に会いたい。
けれどその願いが叶わないこともわかっている。
だから最後に一つだけ。
届くかも分からない小さな声だけれど言わせて。

愛してる。これまでもこれからも。

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