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私に「殺してくれ」と言った祖母が亡くなった話

「ばあちゃん、そろそろいけんかも」

母からそんな連絡をもらったのは、フリーランスになって初めて大きな案件×2と5月にイベント主催を控えるなど、あれこれ重なり超繁忙期を迎えた4月の終わり。
下手したら主催イベント当日に会場にいられないのでは…とヒヤヒヤしながら作業をしていた。
まさかの時の対応をあれこれ考えていたがそれも杞憂に終わり、イベントは無事に終了。2つの案件も無事に納品できた。

その後、連絡がないということは、まだ大丈夫だろうと思っていた5月下旬に危篤の知らせ。
父の兄弟たちも集まったそうだが、なんとか持ち直したという。

しかしその翌週の6月1日、朝方ちょっと時間のできた父が見舞いに行ってすぐ、スゥッと眠るように亡くなったらしい。

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大正時代、博多に生まれた祖母は、かつて紡績業をしていたカネボウの工場で働いていたという。博多のデパートで働いていたこともあったそうだが、詳細は不明だ。
博多で祖父と出会い、当時としては珍しい恋愛結婚で結ばれたらしい。

それから大きな戦争を祖父や子ども達と乗り越えたのち、種子島にやってきた。
山を切り開き、和牛を育て、農作業に精を出した祖母。わりと感情的だった祖父に対し、どっしりと構えた落ち着いた性格で、優しい人だった。

晩年、足腰を悪くして動けなくなってからは痴呆が一気に進んだ。
自分の娘が会いに来ても「誰やったかなぁ?」といったり、日々世話をする母を娘の名前で呼んだり、人の区別ができなくなっていた。
牛の世話も農業もできなくなり、ただテレビを見て過ごす日々は、祖母にはとても退屈だったことだろう。

ずっと家に引きこもる生活であったが、週に1〜2回のデイサービスに行くようになってからはみるみる元気になったという。
施設で会えるお友達とお喋りするのを、とても楽しみに毎日過ごしていた。

そんな時期に私は一度帰省したことがある。

そしてそれは、母の車で病院に行くのに付き添った時だった。
母が祖母を乗せる車椅子を取りに車を離れた際、祖母は痩せた細い腕で私の手を握ると、じっと私をみて、

「こげんことをお母さんに言うたら、怒られっけどや…もう、殺してほしかとや」

そう言った。
たくさんの人に迷惑をかけて、生きながらえるのがツライと言うのだ。

私は「そわんこと言うなや」と言うしかできなかった。
介護はする側も大変だが、される側もツライものなのだと、その時心底感じた。

そのことを母に伝えると、痴呆になってからそんなふうに気分の浮き沈みが激しくなったということを教えてくれた。
気分のいいときは「百歳までは頑張らんばな〜」なんて言っていたらしい。
でもきっと、どちらも本当の気持ちだったのだと思う。

母は自宅で介護をしつつ、ショートステイやデイサービスなど施設をうまく使って家のことや農作業をやっていた。
そんなおり、私が結婚し、里帰りで出産した。
息子を祖母に見せると、「玄孫まで見れるとは思わんやったや」と泣いて喜んでくれた時は、本当に嬉しかった。

その後は、なかなかの遠方ということもあって、1〜2回くらいしか帰省できなかったが、必ず祖母に会いに行った。
私のことはもうあまり分からないようだったけど、生きていてくれるならそれでいいと思った。

そして、今年の初め。
自宅介護とショートステイを繰り返していたのが老人ホームへ入れることになり、白寿のお祝いもしたやさき、ものを飲み込むチカラがなくなり、点滴をし続けなければならず、病院へ入院。
一時血圧が下がることもあったが、祖母の希望を汲んで延命措置はしないままでいたそうだ。

祖母の訃報を受けて、私は寂しい気持ちとは裏腹に「ばあちゃん、よかったなぁ」と思っていた。
私に「殺してくれ」なんていうほど、辛かった時間から解放されたのだ。
それにはただただ「よかったね」という思いしかない。

薄桃色の棺に納められた祖母は、まるで眠っているようだった。
穏やかな旅立ちだったことは、とてもうれしい。

「ゆっくり休んでね」と言葉を添えながら棺にお花をいれて、祖母を見送った。

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祖母との一番の思い出は、以前ブログでも書いたが、一緒にマクドナルドに行ったことだ。
種子島にはマックがない。
小さい頃、いつか食べてみたいとテレビCMを見る度に思っていて、それを叶えてくれたのが祖母だった。
マックに行くとそのことを思い出してしまうので、今はちょっと寂しい。

その時に飲んだコーヒーシェイクは、今のメニューにはないけれど、いつか復活することがあったら、息子と一緒に飲みたいと思っている。

#エッセイ #思い出 #介護

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