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#映画感想文225『オマージュ』(2021)

映画『オマージュ(原題:Hommage)』を映画館で観てきた。

監督・脚本はシン・スウォン、主演はイ・ジョンウン。

(ちなみにイ・ジョンウンさんは、『パラサイト 半地下の家族』で家政婦さんを演じていた人である。)

2021年製作、108分、韓国映画。

この映画は、映画の映画である。ここのところ、『エンドロールのつづき』『バビロン』『フェイブルマンズ』と、自己言及的な作品の公開が続いているのは単なる偶然だと思うが、『オマージュ』もそのような作品のひとつと言える。

ただし、社会と個人、家庭で求められる女性の役割、女性と仕事という観点が色濃い。また、主人公の映画監督が壮年で、中庸な人物として描かれていることも特徴である。

主人公の映画監督であるジワン(イ・ジョンウン)は三作目の映画が公開されたものの、客が全然入らず、絶体絶命のピンチに陥っている。制作会社の資金は底をついている。新作を撮るチャンスはなさそうで、このまま廃業となってしまうかもしれない。

そんな彼女のところに、一つのオファーが舞い込む。1960年代に活動した女性監督ホン・ジェウォンの『女判事』という映画の修復プロジェクトである。音声が欠けているところは新たに収録をする必要がある。編集作業をしていると、フィルムの一部が失われていることにジワンは気付く。そのフィルムを探す旅が始まる。

息子は大学生で甘ったれだけれど、かわいい存在だ。ただ、「合宿中に母さんの映画が流れたら、チャンネルを変えられた。もっと面白い映画を撮ってよ」とにべもない。

夫は、妻の監督業が行き詰っているとわかっているのに、生活費も家賃も折半にしようと言い出す。彼女はその仕返しとして、家族ではなくルームシェアの同居人に過ぎないと宣言する。つまり、家事はやらない、という意味だ。

そして、同じ団地に住まう女性の自死。団地の駐車場で数か月発見されずにいた遺体。一酸化炭素中毒による自死であったことがわかる。ジワンは彼女がいなくなったことにすら気付かなかった周囲や自分の冷たさに戸惑う。そして、その死にどことなく引き寄せられてしまう自分がいることに気が付く。

家庭や仕事の中で疎外され、プレッシャーをかけられ、平気な人間などどこにもいない。彼女は薄っすら傷つきながらも、依頼のあった仕事に取り組んでいく。

女性監督ホン・ジェウォンの『女判事』のフィルムを探しながら、その当時の政府の検閲は頻繁にあり、フィルムが切り取られていたことなどが明らかになっていく。もちろん、女性監督が男性社会で映画を撮り続けること自体が難しかったことも、再確認されていく。そして、それは現代でも同じなのだ。終盤、そのフィルムは『エンドロールのつづき』と同様に再利用されていたこともわかっていく。

つらいことだけでなく、女性同士の友情もあった。喫茶明洞でホン・ジェウォン監督が映画仲間の女性たち三人の集まりを「三羽烏(さんばがらす)の会」と名付けていたことを知る。日本語のままなので、ジワンにはその意味がわからない。三羽烏の生き残りの女性に尋ねると「仲良し三人組ってことよ」と教えられる。日本の植民地であったことが、韓国の人々の日常生活の深いところにまで及んでいたことをごくさらりと描いている。日本を感じさせるのが、この大事なキーワードであることに監督の意図を感じる。

物語の中盤、ジワンには子宮筋腫が見つかり、不正出血が止まらなくなったりする。更年期障害と女性特有の病の厄介さ。普通に生きるだけでも大変だということが思い知られされる。もちろん、ストレス過多で、病が進んでしまったという可能性も否定できない。

映画監督は、映画が撮りたいからといってすぐに撮れるほど簡単な職業ではない。多くの人を巻き込んでいく仕事であり、途方もない作業とある種の分業が必要なものだ。

映画監督なんてやめて、夫と息子の面倒を見ていればいいのかもしれない、と彼女は何度も思ったはずだ。

何も劇的なことは起こらず、これから良いことが起きそうな予兆もなく、映画は終わる。ただ、ラストでホン・ジェウォン監督のシルエットが、女性が自死した団地の駐車場に現れる。

それは「映画を撮り続けなさいよ。生き続けなさいよ」という確固たるメッセージであり、ジワンがそれをしかと受け取ったことを意味する。

あきらめかけていた夢を続けようと思えること自体が価値あることだ。だから、生きていけるのだと思わせてくれる、とても励まされる結末だった。

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