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映画『靴ひも』(2018)の感想

ヤコブ・ゴールドワッサー監督の『靴ひも Laces』を映画館で観てきた。イスラエル映画で、全編ヘブライ語である。もしかしたら、イスラエル映画を見るのは、初めてかもしれない。

発達障害(軽度の知的障害)を持つ息子が、母親の死をきっかけに身元引受人として、父親と再会せざるを得なくなる、というところから物語は始まる。

誰かの世話にならなければならない。誰かを世話しなければならない。それは誰しもが直面しうる問題である。

この映画において、「靴ひも」が、あなたは誰かの世話をする人間なのか、誰かに世話をされる人間なのか、それを線引きする道具として象徴的に使われる。

この映画の切なさは、息子のガディは父親に捨てられたことがわかっており、父親が自分を捨てた理由に納得しているところにある。彼は、自分の父親を「パパは、悪い人ではない」と主張する。

そして、父親のほうも、息子を見捨てた自分の身勝手さに罪悪感を抱き続け、父親としての役割を果たすことに逡巡し、そこから逃げようとしたりもする。しかし、自分の子どもが貶されれば、我慢ができず、相手を殴ってしまったりもする。そう、父親は無慈悲で残酷な人間ではない。若くして持った息子に障害があったことから逃げてしまった弱い人だった、というだけなのである。

私にとって最も印象深いシーンは、病院の売店で、ガディが子どもに話し子どもを笑わせようとしていると、その子どもの母親に「変な人と話しちゃだめ」と言われる。そのとき、ガディは反論する。

「ぼくは変な人じゃない。サポートが必要なだけだ」

私たちは、誰しも、大なり小なりサポートを必要としていたりする。家族間であればそれは無償労働であり、福祉を利用すればそれは税金で賄われる。それが当たり前だと思って生きていけばいいのだな、と思えた。

ガディが女性を見ると、すぐナンパしてしまったりするのは、どこか危うさを感じるし、食事のとき、ワンプレートのおかずとおかずがくっついていると、食べられないとごねる。「もう、何回言えばわかるんだ!」と偉そうに言うシーンで思わず笑ってしまった。自分のこだわりやルールを貫こうとする。障害のある人たちはそれを表に出し、周囲との摩擦になるが、自称普通の人々だって、勝手な自分ルールを持っている。

この物語の結末は苦いけれど、イスラエルの社会福祉制度は素晴らしいと思った。こんなソーシャルワーカーがいてくれたら、安心して暮らせる。彼らには、きちんと給与が支払われ、バリバリ仕事する。それだけで、安心材料になる。日本もそうなっていってほしい、と切に願っている。

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