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デンマークの人たちの人との関わり方:対話

写真とはぜんっぜん関係ないですが、今日はデンマークの友人の人との距離の取り方について思ったことをつらつら。

随分前ですが、デンマークに滞在していた日本人の知人のポストで、こんな表記があった。

「日本人は1人に慣れてるんだなと実感する」

デンマークでずっとフラットメイトとシェア生活をしていて、日本に戻って一人暮らしをしたときの感想で、全く他人の気配のない空間にいることに不自然さを感じるようになったとのことだった。

この当時ちょうど逆の状況(別のデンマーク人家族と一軒家をシェア)にいたので、ふと「言われてみたらそうだな」と感じ、同時にでもその他人の気配の中で暮らしているにもかかわらずとても “ちょうどよい感じ” で隣にいるデンマークの人たちの人との関わり方、距離の取り方についてふと考えた

(ただし私が深く?関わっているデンマーク人はそんなに数多くはないので、あくまで個人的見解)

デンマークの人たちの距離感

私が関わることのあるデンマークの友人たちは、非常に相手のパーソナルスペース(身体共に)を尊重しながら隣にいるということに長けているように感じる。ずかずかと入ってくることもないし、かといって無視したり距離をとるわけでもない。この人にとっての距離感ってどのくらいかな?と様子を見ながら、心地よい距離感を保ってくれているように思う。

彼らとの意見交換がまた面白くて、日本人は意見されるとすぐに、その意見を自分の考えに反映または同意しなくてはいけない気持ちになってしまうんだと思うのだけれど、デンマークの人たちはそれはそれ、これはこれ。私はそう考えているけれど、それにあなたの考えが左右される必要はない。私はただ自分の考えをシェアしただけ、あなたはどう考える?と言った感じで、本当の意味での”意見交換”で、日本的な”意見のすり合わせ”とはまたちょっと違う。

その根底には、相手には相手の価値観があり、意見があり、それが自分と同じとは限らないという思想が強く感じられる。だから安心して自分らしくいられる。誰かに無理に合わせる必要がない。それを受け入れてもらっている実感がちゃんとあるから。

ここらへんは、やっぱり彼らがどういう教育を受けて、どういう環境で育ってきたのかが大きく違うんだろうなと思う。それについて、いくつか思い当ることをまとめてみる。

① 社会性を学ぶアプローチ: 個を尊重する

デンマークの幼稚園に見学に行った時のこと。日本から滞在中だった友人の保育士さん夫婦と一緒に見学に行き、そこの園長先生にいろいろとデンマークでの幼児教育について質問などをしていた。

その幼稚園は非常に自由な幼稚園で、毎日クラスの小さなグループごとにアクティビティが用意されてはいるものの、たとえばそれをやりたくない子や、他のことをやりたい子がいたら、対応できる限り職員が協力しあって調整するなど比較的子供が自身の選択を尊重されている印象があった。

一方で、この幼稚園のみならずデンマークでは、小さい頃から「社会性を身に着ける」ということが重視されているが、ふと、個の選択が優先されると、集団行動(社会性)が苦手になるのでは?と疑問ももった。その時の答えはこんな感じだった。

ちゃんと自分の選択を尊重された経験を持つと、成長と共に、同様に相手の選択を尊重することを学んでくる。勿論小さいころはできないけれど、大体年長さんくらいになると、『あ、今はみんなで集まる時間なんだな』『あ、今並んでほしいのかな』とか全体の流れの中での動きといったものを見ることが出来るようになり、また同じクラスにいる小さい子たちをまとめてくれるようにもなってくる。(この幼稚園は縦割りで、3-5歳児が同じクラスにいる)」

日本でいう社会性とは、へたすると個を滅する動きにもなりかねない。どうやって相手に合わせるか、の能力。

デンマークでの社会性とは、互いの個を尊重することにより生まれる。

このデンマークの社会性は、育むのに時間がかかるものなので、幼稚園生や小学生などを見ると、日本だと「ピッ、集合~!」と言ったらビシーッと並べるのに対し、デンマークではもっとゆるゆる~っと集まるしピチーっと並ばないし指示もすぐには通らない。でも、高校生くらいになってくるとデンマークの子たちはそのころには既に様々なことに対して自分の意見を持ち、自ら社会に関わることができる。相変わらずびちーっと並んだりはしないけど、でも確かにそこにしっかりとした社会性が存在しているように見える。

② 自分探しのアプローチ: 集団の中で自分を見出す

「アジアでは自分探しと言うと、山に籠って精神修行とか、自分との対話とかそんなイメージがあるだろう?デンマークでは逆で、他人との共同生活の中に身を置いて、他人との摩擦や意見交換の中で、自分というものを見つけていくんだ」

と、こんなことを言っていた(意訳)のはデンマークのエフタスコーレ協会で働いていたスーネさん。エフタスコーレとは、日本で言うところの小学校を卒業した子供たちで、その先の進路がまだ定まっていない(デンマークでは所謂高校レベルから専門性のある職業訓練校や専門教育校を選ぶことができる)、あるいは学力的にまだもう少し勉強が必要な子たちの中で、寮つき・泊まり込みで1年間勉強のみならず様々なことを学ぶことができる教育機関で、なぜこの年のこどもたちが家を離れて、泊まり込みで1年間を過ごすことに意味があるのかと言う問いに対する答えの中で聴いた言葉だったと思う。彼は奥様がアジア出身ということで、私達がどういう教育を受けているのか、またどんな思想を持っているかなどについても詳しかった。

このエフタスコーレそのものを実際に見学したことはまだないんだけれど、聞いたところによるとここは所謂「学校」というよりは、人生における規模の大きい「実験場」のようにも感じる。勿論カリキュラムとして通常授業もあるそうだけれど、学校によって例えばさらにスポーツに特化しているところ、また芸術に特化しているところ、様々なタイプがあり、こどもたちは1年間、勉強だけでなくて様々なことを存分に学び、さらに寮生活においても、決まったルールはなく、その場にいるみんなで話し合ってルールが決まっていく。

たまに、「昼寝て、夜起きてみたらどうなる?」とか言う人がいると、「やってみようか」となって、試しにやってみたりすることもあるらしい。とにかく「ルールだから守る」じゃなくて、「なんでそのルールがあるのか?」というところをさまざまな体験を通じて学んでいく。とにかく常に誰かが周りにいて、話をする。そうすると、友達もおんなじ悩みを抱えていることがわかったり、逆に全く違う考えを持っていることもあるという非常にシンプルなことも体験する。さまざまな摩擦を通して、自分と言う人間を知る。そして、人との接し方、社会との関わり方も学ぶ。


進路に迷った時、つまり、自分という人間がどういう人間なのか迷った時に通う場所として、もう一か所日本でも有名かもしれないけれどもフォルケホイスコーレという場所もある。こちらは年齢的には高校を卒業した後くらいの子たちが、高等教育へ進むにあたってその前に一度自分が本当にしたいのは何なのか、もう一度考える時間を持つ為の場所だ。(デンマークでは高等教育=そのまま職業へと結びつく、また一度学位を取得すると別の学位を取得することが難しいため、最終学歴を決定する前に悩む子供は少なくないとのこと)こちらもまた、寄宿型で、数か月におよぶ他人との共同生活と、多様な学びのプログラムの中で他人との良い意味での摩擦の中、自分を見つけていく。

こういった形で、他人との共同生活に飛び込み、対話や摩擦を通じて自分を見つけていくというプロセスは非常に興味深い

③ 対話力

①、②のようなものを実現するその根底には、彼らの「対話力」がある。

とにかくデンマークは、小学校以降、一般授業に置いてグループワークばかりだという。実際に授業を見に行ったことがないのがどうにも口惜しいけれども、もと小学校の算数教師でデンマークの大学院にて研究をしている知人が言うには、最初に15分程度のレクチャーがあり、残り時間、何か課題を与えられてグループワークとなるのは非常にデンマークでは典型的な授業の進め方だとのこと。

また、大学などでもデンマークでは授業にディスカッションが設けられることが非常に多く、議論に慣れたデンマーク人の前で、自分の考えをしっかりと言葉に表して発言するということに慣れていない日本人は最初議論に”参加”することすらなかなか難しいという話を聞いたこともある。これらについて、実際に自分で見たり体験したりしたことがないのは少し残念。あくまで聞いた話であることは記述しておく。

ただここで、「議論」と書いたけれど、少しデンマークで特徴的だと感じるのは、

「討論(ディベート)」ではなく「対話(ダイアローグ)」であるということ。

討論では”その問題について是非を議論”することが目的なことに対し、対話では”向かい合って話す”ことが目的なので、本当に意見”交換”の印象が強い。

「私はこう考えるけど、あなたは?」

というスタンスなので、相手の考えを否定したりしない。もし意見が異なることがあっても、

「私は私、あなたはあなたで意見が違うことなんてあたりまえじゃない?」

と、本当にフラットな形で意見をシェアしてくれ、さらにそれをどう受け止めるかについては相手の考えや決断を非常に尊重してくれる。私はつい、日本人なせいか個人的なものか、相手にアドバイスされたり意見されたら、自分の結論にはそれをいくらか反映させなければいけないという意識が働いてしまうのだけれど、何度も何度もデンマーク人の仲間から、

「あなたのことを決めるのはあなた。私はそこにただ私の考えを言っただけ。決断はあなたがすべきだし、私はそれを尊重する」

と言われ、そのフラットさに本当にはっとさせられた。この対話力は日本にはまだないものだと思うし、彼らはこの力をもって、AかBかの議論の時に、自然とCやDの可能性も議論することができる。

あらゆる社会課題に対し、意固地になって自分の意見を曲げずに「是か非か」の議論に熱中するのではなく、全く新しいアプローチを全員で採択することだってできる。自分の考えと、相手の考えは違い、だけど集団として前へ進まなくてはいけないという折り合いのつけ方がうまいのだ。自分の考えと他人の考えをそこに「共存」させることができる。AかBかじゃない。AもBも、なんならCもDもZもだ。デンマーク人はこの対話力をもってして数々の創造的なアイディアを生み出してきたのだと強く考えさせられたし、そしてこの対話力こそがデンマークの教育において重視されている「社会性」そのものなのではとも思った。

自分にできることは?

デンマークに来て、彼らの”人との関わり方”に触れたのは非常に興味深い経験だった。

自分自身の持っていた様々な思い込みという鎖のようなものをゆるりとほどき、あらためて自分と言うもの、そしてそれ以外の人たちとの関係性の持ち方などについてもいろいろと考えさせられた。また、この対話力というものが、日本の未来を支えるキーとなる力であるのではとも強く思った。私は自分の息子や、そして関わる子供たちに、どんなことをしてあげられるだろう?

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