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不幸と幸福の絶妙なバランス

2020年4月24日現在、「今幸せですか?」と聞かれて、間髪なく、躊躇なく「はい!」と即答できる人が世界にはどれくらいいるだろうか?多分、多くはないと思う。どちらかというと、「生活が苦しくて」とか「この先どうなるのか…」とか「とにかく退屈で」とか、答える人がほとんどであると思う。

実際、私もそうだ。幸せかって言われたら、満面の笑みで肯定はできない。今日は金曜だから、一応は一週間の中での仕事納めみたいな日であって、一区切りはつくべきなんだけど。

家の中で仕事することに関して、プロフェッショナルではないから、ど素人だから、ぼんやりと週末が始まり、ぼんやりとまた新しい一週間が始まる。だから仕事が終わった瞬間、パソコンを閉じた瞬間っていうのは、一日のなかで最もなにもやる気の起きない瞬間になっている。これからのワクワク、そんなものはないし。「さあ本読もう」みたいな気分に無理やりなっても、自分が数10センチ場所を移動するかしないかの話であって変化がない。

おそらく多くの人が同じ状況に悩まされているのではないかな?

これから大型連休が来るはず、なんだけど、最低限しか外出できないから、家の中でできることには限界があるから、なんて長い休みなんだろうなぁ。目標を立てないと、つぶれちゃうだろうなぁ。と高度な産業社会にどっぷり浸かって二十数年の私は、不安にすらなる。

満たされないなぁ、だって本屋に行けないし。毎朝陽の光を浴びることもできない。ビールを飲みながら延々としょうもない話をすることもできない。ジュークボックスにお金を入れることだってできない。黒塗りのフィアット600に乗って公園の垣根を突き破ることだってできない。ビーチ・ボーイズのLPを探しに小さなレコード店に出向くこともできない。(※)

不幸は平等に訪れる。それが不幸中の幸いだ。不幸にはバリエーションがあって、衣食住にかろうじて苦労していない私はぬるま湯人間かもしれないけど、どれくらい不幸であることかを競うのは、今ここでは意味を持たない。程度の差こそあれ、自由を著しく制限されているという意味において、皆等しく不幸である。

しかし、抑圧された不幸は、幸福だ。できない中からできることを探すことは人の創造性を刺激する。人は追い詰められると文章を書きたくなる。発想と想像力が活性化され、自己を振り返ると思考が整理され、自分の外に出したくなるのだ。想像力が生まれると、今まで見向きもしなかった所に目が向かうようになる。そうして新しい発明が生まれる。

不幸は来たる幸福の伏線である。人はずっと不幸でいることができないし、経済もずっと不況であることはできない。人は有機体だから、変化する。人の動かす経済も同じだ。

例えばサッカーW杯において、優勝した国は次回大会のグループステージで敗退することが多い。強いチームはずっと強いチームでいることができないのだ。2014年に華々しい優勝を飾ったドイツ代表だって、2018年には無残な姿で散った。

歴史もまた、それを証明している。黒死病の後にはルネサンスがあり、大バッハが生まれた。

人間はどんなに頑張っても、変わることから逃れられない。安定と不安定の間を絶えずさまよい、絶妙なバランスを保つ。

繰り返しになるが、不幸が全て悪いわけではない。不幸は人に新たなパワーを与える。新たなパワーは再び、豊かな世界を作りうる。最初はいい。最初は万事が楽しい。新鮮だ。でもすぐに飽きる。幸福とは飽和することでもある。飽和すると行き詰まる。面白みがなくなる。退屈は不幸だ。

今の退屈と、平時の退屈は違う。平時の退屈は、満たされすぎた退屈だ。何もかも手に入ることが当たり前でつまらなくなる現象のことだ。でも今は、手に入るものの方が少ない。つまり、それが手に入るまでの間、それを手に入れた時のことを想像する間は、究極の幸福を保持できる。

解放された時のことを考えたことはありますか?自分がどんな顔で、どんな気持ちで、どんな服を着て、どんな靴を履いて、外に出るか、考えるだけで、その時の心境を前もって体験できると思いませんか?

1945年5月、ヨーロッパの人たちがどんな表情で祝杯をあげたか、覚えていますか?そこらじゅうの人と接吻を交わし、抱き合い、夜が明けるまでテラスでお酒を飲んだと思う。花吹雪の中、自由を取り戻した感覚は何ものにも代えられないことだろう。そんな日が、いずれはやってくるんですよ。自由を祝福する日が。今と決して同じではない。今までとも違う、一体どんな世界になっているのかな。そんなことを考えると、今それを待っている時間が、少し温かくなりませんか?ーそれを人は、幸福と、呼ぶのではないでしょうか。


※ Inspired by 村上春樹先生のデビュー作『風の歌を聴け』

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