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「死んでもいいんじゃない?」

私は中学生の頃からずっと「死にたい」と思っている。
何だかわからない圧倒的な苦しみが超デカい重石になって、胸を潰してしまいそうなのである。
それが辛いから死んで楽になりたい。
重石の正体ははっきりとは分からない。今までのトラウマの堆積物なんだろうけど、専門用語で重石に名前をつけたところでなんかしっくりこないような、言葉の世界から弾かれた異物なのだ。

大抵の人は他者の「死にたい」という言葉と上手く付き合えない。
「そんなこと言っちゃだめだよ」「周りの人悲しむよ」「死んだら悲しいよ」、こういった言葉を返すことになるかもしれない。
その言葉の是非については、以前の記事に譲りたい。

しかし、自ら命を絶とうと考えたことがあったり、身近な人を自死で失ったことがあったりする人の中には、他者の「死にたい」をかんたんには否定しない人たちがいる。
彼らは、"自殺" を有名無実な遠い世界の出来事として済ませられる多くの人たちとは違う。
死にたいと願うほどの極度の苦しみを味わったことがあったり、自ら亡くなった人の奥底に何があったのか手を伸ばして触れようとしたりしている人たちである。


私はひどい希死念慮のため、最近まで入院していた。
入院中も「死のう」という気持ちは変わらなかった。

精神科の病棟は、患者が危ないことをしないように様々な工夫がこらされている。
入院すると持ち物検査があり、刃物類(カミソリなど)や紐類(靴やズボンの紐やコードなど)は持っていたら没収される。
病室も、ドアの取っ手など(紐をかけられる)凸な部分がないよう設計されている。窓も当然開かない。

ところが、毎日のようにこの病棟において死ぬ方法を考えていたら、ある日「これは確実だ」と思える方法を思いついてしまった。
人に発見されないよう、深夜に決行することを決めた。

「これで楽になれる」という歓喜と、「本当にこの世界とお別れするんだ」という戦慄が入り混じった。
このドキドキを落ち着かせたかったのか、葛藤を片付けたかったのか、自分でもよく分からないけれど、誰かに「もう死ぬよ。」と告白したくなった。

その「誰か」は、私の死を引き止めるような人物ではいけなかったから、パートナーでも友人でもなく、「死にたい」を否定しない人を選んで電話をかけることにした。

2人目で電話が繋がった。
その人は、動揺することなく落ち着いて話を聞いてくれた。
「そうかー。」「うーん。」とちょっと困りながらも、私がどれほど価値ある存在であるか(具体的な内容は忘れてしまった)を話してくれて、そして「こんなことしか言えなくてごめん。」と言った。私は「ありがとうございます。」と返して、電話を切った。

その電話は震える気持ちに対する精神安定剤として働いたのだろうか。私は静かに夜が更けるのを待った。

そして、決行した。
意識を失った。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
私は何とも表現しがたい不快感と共に意識を取り戻した。
私の命は助かった。

助かったのは想定外だったが、同じような方法であれば今度は確実だと思って、気を取り直して再び準備を始めた。

入院中に特別仲良くなった看護師さんがいた。
ベテランの人だったが、私にシンパシーを感じたようで、「こんなこと初めて人に話したよ。」と、自身の生い立ちを話してくれた。
私も、その看護師さんにだけ、今まで誰にも話せなかった過去の出来事を何回か打ち明けた。
いつも、「この話だけはこういうふうにカルテに書いていい?」「この話は人間としての僕が聞いた話だからカルテには書かないね。」と温かく話を心にしまってくれた。

心の苦しみから逃れようとと自傷をした時には、その看護師さんは膝ガクガク震えさせながら、「ごめん、何もできなくてごめん。」と一筋涙を流して手当てをしてくれた。

再び死ぬ準備が完了した夜、その看護師さんに「もう死にます」とコソッと打ち明けた。
その看護師さんは「そっかぁ…。」と頭を抱えて、思いを巡らせながら「そんだけ苦しいんだもんね…。何が正解かもう分からないよ…。」と悩みに悩んでいた。
「明日僕夜勤だから、その時会えたらまた握手しようね。僕にできることはやるよ。」と言って、手を差し伸べてくれた。
会話する度に交わす握手は、その看護師さんと私の特別なつながりの証だった。

その夜。私が入院していることを知った親友が、電話をかけてくれた。
「ごめん。電話する元気ない。死ぬ方法ばっか考えちゃう。」と電話を取らずにテキストで返したけれど、「とりあえず話を聞きたい。」「入院してる病院に行って会いたい。」と言って、もう一度電話をかけてくれた。

「とーこが苦しくてたまらないなら、死んで楽になるなら、受け容れるよ」
親友は電話口で嗚咽していた。
「でもとーこが死んだら一生悲しい、一日だって忘れないよ」。

その言葉を聞いて、私の目からも涙が溢れた。
私のために、涙を流す人がいる。
「なんとか、生きる方向に頑張ってみる」。
もう少し、頑張ってみよう。そう思えた。

次の日、たった15分の面会のために、親友は病院まで来てくれた。
これからもいっぱい一緒にお出かけして、いっぱい美味しいもの食べようね、と明るい光が差した。

その夜、夜勤で来た例の看護師さんは、私のことを見て、「昨日は○○さん(私の名前)のことを考えて、缶チューハイを2口飲んで、そのままフローリングで寝ました。だって、昨日は本当に覚悟が決まった顔してたもん。」と笑いながら教えてくれた。

「僕にできることはやる」。
その言葉通り、時間を作っては一緒に折り紙したり、シャワーを浴びてる時は何度も外から「○○さん、大丈夫ー?」と生存確認をしたり、手を尽くしてくれた。

私が感じている極度の苦しみを思って、葛藤しながら、私の「死にたい」を受け容れる。
そういう人達がいる。


初めて、人に「死んでもいい」と言われた時のことをよく覚えている。

「最近死にたみがやばい。」と、私を娘のように可愛がってくれる人に連絡したら、すぐ家に招いてくれて、美味しい料理を振る舞ってくれた。

その夜、私は病院の都合で変更になった新しい主治医の話をした。

新しい主治医は左手の薬指に指輪をキラキラと光らせて、パールのネックレスをして、肌がツヤッツヤの美人だった。幸せオーラ全開なのである。ちなみに診察は超短い。
診察で「死にたい気持ちになったらどうすれば良いですか」って聞いたら、「運動するのが良いと言われています。」「後は場所を変えるのも良いですね。カフェテリアとかに行ってみたらいかがですか」。
…………え、カフェ「テリア」??!!

その人は、手を叩いて爆笑しながら聞いてくれた。
上流階級すぎん?分かってなさすぎる。絶対死にたくなったことないよね。なんで精神科医になったんだろうね?やっぱ定時で帰れるからかな。そういう人に精神科医やってほしくないよねー。人の人生を預かるんだからさ。

「でもさ。本当に死ぬぐらい辛かったら死んでもいいんじゃない?『生きててほしい』とか言われてもじゃあ誰が人生の責任とってくれるの、っていう話じゃん。」
「とーこが死んだら、それくらいしんどかったんだな、って、そう思うよ。」


その言葉で楽になりました、とか、死にたい人には画一的に「死んでもいいよ」と言えば良い、とか、全くそういう話ではない。

この人の「死んでも良いんじゃない?」はひどいことを言っているようでとても優しいのである。


医者はいかにもたやすく「死なないって約束してくれますか」とか「次会うときまで自分を傷つけないでくださいね」と言う。

その言葉をとっても無責任に感じる時がある。
死なない約束をさせて、かといって死にたい気持ちを楽にしてくれる訳でもない(もちろん薬とかは出してくれるけど、薬で簡単に解決はしない)。
週に一回5分10分しか会わない他人に、マニュアル的な対応として約束をさせられて、あとは辛い状態のまま放置プレーである。
こんな約束は、思慮にも配慮にも欠けている。

「死にたいくらい辛かったら死んでもいいんだよ、私はその決断を受け容れるよ」という姿勢でいて、
私が「死にたい」といえば、即お見舞いに来てくれたり、一緒に折り紙をする時間を作ってくれたり、家に招いて美味しいご飯を作ってくれたりする。

そういう人達の「死んでもいいんじゃない?」は、死にたい人の抱えている辛さの重みを受け容れる言葉であり、死んでしまった人の辛さの重みを思いやる言葉である。
そして、その言葉は決して無責任ではない。
それくらいの辛さを、一緒に過ごす時間で少しでも手助けしようとしてくれているのである。

医療者は基本的に命ファーストだ。
だから「死なない約束」をさせる。
それをどう感じるかは普段の関係性次第だと思うけれど、その約束は時に残酷である。生き地獄を生き地獄のまま生きてくれ、って言っているのだから。

あとは「絶対生きていれば良い時も来るから。」も常套句。
あなたにとってはそうだったかもしれないけど、私の人生においてもそう言えるんですか? 精神疾患の多くは慢性疾患だけど本当に生きててよかったと思える保証はありますか?
私だったら他人の人生についてそんな断定はできない。
何十年と精神疾患を抱えて苦しんでいる高齢の人を精神科病棟でたくさん見てきた。

もう、命ファーストを掲げられたって辛いだけ。
死ぬほどの辛さの重みを「死なない約束」なんかで揉み消さず、「そんなに辛いときは死んでもいいんじゃない」と受け容れる。
そして、一緒におしゃべりして、一緒に美味しいご飯を食べて、私の人生の1ピースを共に作ってくれる。
これほどの優しさをくれるから、「生きよう」って思える時がある。

私が聴いた「死んでもいいんじゃない?」は、医者の言う「死なない約束をしてください」とは対局にある。
後者とは違い、前者は決して無責任な言葉じゃない。
私の辛さを深く感じ取り、同時に、私の人生に彩りを与えようとしてくれる人だけが発することのできる、思いやりに満ちた言葉なのだ。



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