インプットを邪魔するもの「義務感・崇拝・過多」

1. 義務感

勉強をしなさい!と言われて素直に勉強をする人間はほとんどいないだろう。

それと同じで、自らにインプットを義務化した途端、非常にやりたくない行為へと変質する。

義務化された行為ほど成果が出ず習慣化もされない。

正のモチベーションで始めた行為も大して続かないが、やりたくないまま嫌いややり続けても習慣化されないのである。

やらなきゃやらなきゃ、という思いがある時にふと目に入ったYouTube広告の映画が大変魅力的に見えることがある。

試験勉強が嫌だからと何の気無しに手に取った小難しい積読本が思いの外面白かったりする。

これらは我々が義務感の外側からの刺激には弱い、ということを示している。

いわゆる常識において「良いもの」とされていることを、人はしたくない。

勉強はしたくないし、真面目に生きたくはない。

全ては常識という同調圧力、そして義務感の所業である。


2. 崇拝

趣味崇拝。

趣味は確かに人生にとっていいものであるが、あまりに「趣味はいいものだ」という信念を持っていると、かえって趣味が楽しくなくなる。

崇拝はいずれ義務へと変わるからだ。

良いものだと信じ込むほど柔軟性が失われ、やりたいことがやらねばならぬことに変わってゆく。

読書はいいもの?そんなことはない。


3. 過多

現代においてはほぼ全員が陥っているであろうこの症状。

ニュースは無料で読めて、図書館で自由に本が借りられて、サブスクで映画ドラマアニメ見放題。

これだけ情報が溢れていれば嫌にならない方がおかしい。

そして何より、選択肢があまりに多いと、選ぶことができなくなる。

かと言って情報でパンパンになった頭が、冴えた思考をできるわけもない。

なかなかの八方塞がりである。

こういう場合はインプットもアウトプットもせず、客観的に中立な立場で自分を観察するしかない。

入れたくもないし、自然発生的に湧いてくるアウトプットもないのなら、「何もしない」という選択をとるほかない。

そして何もしない時間の中で、ふと気になったものに手を伸ばしてみると意外と楽しかったりする。

しかしその時も決して期待してはならない。

期待するほど、離れていくから。


まとめ

やれと言われればやりたくなくなり、

崇めれば魅力的でなくなり、

たくさん差し出されれば要らないと感じる。

人間は本当に天邪鬼にできている。

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