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【創作小説】いつかは祝い直しましょう

 朝焼けにも似た色の照明が、賑わうホールを明るく照らしている。等間隔に並べられた円テーブルは、どれも真っ白なクロスを敷いた上にぴかぴかの食器を備え、真ん中には花が飾られていた。
 出席者は四〇人ほどか。誰もが正装をして、皆一様に楽しそうな顔で、同じ席の面々と話をしている。誰とも喋らないまま遠巻きにそれを眺めているのは、美鳥ひとりだった。
 ぼうっとしていると、賑やかな声の間をすり抜けるようにこちらへ歩いてくる、小さな男児の姿に気付いた。何となく見守っていると不意に目が合って、彼は立ち止まって美鳥をじっと見つめる。美鳥もつられて見つめ返してしまう。純粋な光を宿した大きな目。それを羨ましいと一瞬思ってしまって、年甲斐もない、と微苦笑する。
 間もなく彼が来た方から、若い女性が小走りにやってくる。ドレスとハイヒールに慣れていないのだろう、少し危なっかしい足取りだ。
「こら、勝手に行かないの! すみません、もう……」
「いえいえ。小さい子には見たことないものが沢山で、楽しそうですね」
「ええ、まあ……でもいつ飽きて騒ぎ出すか。式のあいだ大人しくしててくれればいいんですけど」
「食事が出るから……ああ、でも口に合わないと余計にか」
「そうですねえ」
 困った風に、けれどそれでも愛おしげに笑いながら、ひとつ会釈をして、彼女は子供の手を引いて席へ戻っていった。
「あ、えっと、美鳥さんでしたっけ」
 後ろから声。振り返れば、美鳥と同年代の男女が居住まいを正して立っていた。写真などで顔を見たことはあったが、実際に会うのは初めてだ。美鳥は立ち上がって、畏まって頭を下げる。
「ああ、悠陽(ゆうひ)さんの親御さん。私はその、話すと複雑なんですが――」
「悠陽から伺ってます。心娃(ここあ)ちゃんの育ての親……みたいな、と」
「そうですね。みたいな、です。実際、知り合いもいないもので、ここに配置するしかなかったんだと思います。お気になさらず」
 他ならぬ悠陽が自分と心娃の関係を理解してくれたからまだよかったものの、自分をどこの席に置くか随分悩ませてしまっただろうな、と思わずにはいられない。
「いえいえ、そんな。せっかくこんな席ですし、お話させてください」
「心娃ちゃんのお話、聞かせてほしいわ」
 言葉は社交辞令というよりは、彼女の無邪気さから来ているようだった。美鳥は曖昧な笑みを返す。それをちょうど上から隠してくれるかのように、照明が落ちる。
「皆様、大変お待たせ致しました。新郎新婦の入場です、拍手でお迎え下さい!」
 ノイズ混じりの声がして、定番のJ-POPがかかる。響く拍手や指笛の中、タキシードとウエディングドレスに身を包んだ男女が、スポットライトに照らされながら、腕を絡めて、ゆっくりした足取りで入ってくる。こういう場面において新郎新婦が、世界で一番幸せなふたり、などと形容されるのを、これまで美鳥は本で読む度に鼻で笑っていたけれど――いざ自分が深く関わった子のそういう姿を目にすると、理屈を越えた部分でそんな風に思ってしまうのも無理からぬことなのだ、と美鳥は知った。
 式場の最前に用意された席へ二人が着席すると、その後ろに天井からスクリーンが下りてくる。
「それではまず、お二人の馴れ初めについてのムービーを用意して頂きましたので、ご覧下さい」
 ムービーが投影されてゆく。手始めに大学一年生の時の二人の写真が出てきて、後ろの方から笑い声が上がる。
「新郎と新婦は共通の趣味を切っ掛けに知り合い――」
 自分たちもそうだったな、と美鳥は想う。もう五年も前のこと。或いは、ほんの五年前のこと。

・・・

 美鳥がインターネットに書いているブックレビューに、彼女がコメントをくれたのが切っ掛けだった。
 ハンドルネームのままで文字だけのやり取りを重ねて、仲良くなるまでにそう時間はかからなかった。やわらかな物腰や、人間心理やとりわけ自分自身に対する怜悧な視線が、美鳥には好ましかった。何より、読む本の傾向が全く違うわけでも大きく似通っているわけでもなく、少しだけ重なっている、というのが楽しかった。
 一度直接会ってみようか、という話になる頃には、少なくとも美鳥の方は、少なからず彼女に惹かれていたように思う。単純すぎると自分でも思っていた。だから、直接会ってみれば少しは冷静になれるだろう、というつもりだった。つまるところ、何かを期待していたわけではなかったのだ。強いて言えば、馬鹿げたこの気持ちが少しでも冷めてくれることを期待していた。
 けれど、美鳥の期待通りにはいかなかった。それを喜ぶべきか嘆くべきだったのか、少なくとも当時の美鳥には分からなかったが、ともかく二人はインターネット上でのやり取りとさして変わらず、なめらかに言葉を交わすことができた。
 ――一番流暢に話せる事柄は、互いの読書の傾向の、重なっている部分の話だった。大正時代から昭和時代の、少女小説と呼ばれるものたち。少女たちの未来がずっと狭く絞られ、決まり切っていた時代に、ひとときの夢として、訓示として、或いは反抗として描かれた物語たち。
「どうしてこういうのに興味を?」
「このくらいの時代の文章の雰囲気が好きで。それと――わたしも、当事者っていうと変だけど……一応元々は、どちらでも、の人で」
「あー、なるほどね」
 美鳥は投稿を始めた当初からプロフィール欄に、同性愛者であると記していた。別段それをアピールポイントにするつもりではなく、出身大学とか好きな食べ物とか、そういった程度のものと同列に扱っていただけだ。それでも、その明記が彼女を引き寄せる一因となったのは確からしかった。
 無難なお洒落さを積み上げてできたような喫茶店で、気がつけば二人はそういう踏み込んだプライベートの話まで開示していた。あくまで慎重に、顔色を窺うように。けれどどうしようもなく知りたくて、知ってほしくて。
「香織、です。本当の名前。リアルでは、こっちで呼んでくれる?」
 別れ際、駅前の賑わいの中で、少しだけ声を張って彼女はそう言った。その時の、ただそれだけのことを言うためにしては必死すぎるような表情が、思えば決定打だったのかもしれない。
「じゃあ、私もいい? 私は美鳥。――また会おうね」
「うん。また」


「わたし……子供がいるの。前のパートナーとの子供。女の子で、もう高校生なんだけど」
 いかにも深刻そうな面持ちで香織が打ち明けてくれたのは、インターネット上でのやり取りよりもリアルで会うことの方が多くなってきた頃だった。それがあまりに真剣な、世界の終わりを予言するみたいな口調だったから、美鳥は笑ってしまった。
「ど、どうして笑うの」
「正直、察してはいたから」
「ほんとう? なんだ、もう……」
 香織はその数秒だけ顔を綻ばせて、それからまた深刻そうな雰囲気に戻ってしまった。
「ただね、……わたしの指向のこと、知らないの。言う機会もなくて」
「ああ……まあ、機会がなきゃ言わないよね」
「美鳥のこと、ちゃんとパートナーだって紹介したいの。優しい子だから、拒絶されるようなことはないとは思う。思いたいけど」
 どこまでも不安そうに、おっかなびっくりといった具合で自分の娘のことを語るのは、美鳥の目にはいっそ滑稽にすら映った。
 結局、香織の心配は全くの杞憂で――美鳥と香織がパートナーシップを結ぶことになった時だって、誰よりも喜んでくれたのは心娃だった。
「美鳥さんなら、母さんのことよろしくって安心して言えるよ」
「ちょっと心娃、生意気言うんじゃないの……」
「あはは! ええ、ええ、任せといてよ」
「うん、よろしくね。じゃあこれからは美鳥さんのこと、ママって呼ぼうかな。……え、なんか恥ずかしいな……」
 はにかみながら笑って顔を手で煽ぐ心娃の様子を、何故だか妙に鮮明に美鳥は覚えている。

・・・

 歓談と食事の時間が始まる。悠陽の親族が彼と話しに行ったので、美鳥も倣うことにした。
「心娃」
「あ、ママ」
 心娃は一瞬だけ小声になる。事情を知らない人に聞かれれば面倒なことになるが、かといって呼び方を変えるという選択をしないのが心娃だった。
 呼び方はそのままでも、今の美鳥と心娃は結局のところ他人同士だ。二人を繋ぐものは、かつてこうだった、という、多少重量のあるだけの思い出にすぎない。
 テーブルから持ってきたワイングラスを差し出すと、心娃もグラスで応える。ちん、と小さな音。喧噪の中では呆気なく掻き消えてしまいそうな。心娃のグラスの中身はどうやらビールらしかった。あまり得意ではないはずだ。ワインとの二択で渋々選んだのだろう。心娃が成人してからは一緒に酒を呑むことも何度かあったが、心娃はいつも弱めのカクテルや果実酒を選んで、それでも二杯も呑めばふにゃふにゃになっていた。
「疲れるでしょ、そんな恰好でずっと座ってるんじゃ」
「あはは、正直まあまあ窮屈。でも皆そうでしょ。ママだって」
「私は何度もこういうの出てるから、別に。心娃ほど若くないので。――お色直しはないんだっけ」
「うん。普通より少し短めで。この後はあたしと悠陽の友達が、あれ、何だっけ」
「余興?」
「そうそれ、それやって、あたしがめっちゃいいスピーチをして全米を泣かせて終わり」
「まあ楽しみ」
「ママは泣かないだろうな」
「泣くのは……私の担当じゃないからね」
 名前を出しかけて、ぎりぎりで引っ込めた。けれど結局、そんな中途半端な配慮は余計に不在を際立たせるだけのことだった。
「母さんは来てない、よね」
「話はしたんだけど。でも、説得っていうほどのこともできなかった」
「そっか」
「……期待してなかった?」
 心娃が思いの外あっけらかんとしているから、美鳥はつい余計なことを尋ねてしまった。心娃は少し眉を下げて微笑む。記憶の中とまるで違うメイクのせいで、そんな些細な表情でさえひどく大人びて見える。
「全然一ミリも、ってわけでもないけど。でも、母さんのことはあたしなりに分かってるつもりだから。逆に、来てたら来てたで何話せばいいか分かんないや」
「それもそっか」
「あのさ、もし会うことがあったら伝えて。えっとね……あたしは、幸せだ、って。母さんが許してくれなくたって、勝手に幸せになるよって」
 怯んでしまいそうなほどに直線の眼差しを美鳥へ向けて、心娃は堂々とそんなことを言った。嘘偽りも誤魔化しも衒いもない温もりを受け取って、美鳥は小さく感嘆の息を吐く。
「大人になったね、心娃」
「高校生からしか知らないくせに」
「それでもだよ」
「そっか。まあ、そうかもね。……母さんもだけど、ママもだよ。ママも幸せになってね。頼らせてもらうことは、あるだろうけどさ」
「そうねえ。幸せかあ」
 今更、などとは言いたくないが、どうしたって想像はつきにくい。天井を仰ぐ。オレンジ色の照明が目を刺して、思わず目を閉じた。

・・・

 心娃はいつも明るくあっけらかんとして、美鳥にとっては一緒にいて疲れるところのない相手だった。義理の親子という形になってからも、美鳥と心娃は半ば友達同士のような付き合いをしていた。
 そこに静かで思慮深い香織を加えた女三人での暮らしは、美鳥が思い描いていた以上に何の問題もなく、平和で円滑で、楽しかった。
「ずっと黙ってたんだけど……付き合ってるひとがいて。結婚を考えてるの」
 だから――心娃のあんな深刻そうな顔を見たのは、その時が始めてだったのだ。大事な話があると言って、改まって香織と美鳥を向かいに座らせて、そう切り出した時が。
「……男?」
 香織の問いかけは、明らかに低い声だった。美鳥が思わず顔を強張らせた一方、心娃はもう全てを覚悟していたようで、はっきりと頷いた。
「うん」
 ほんの一瞬で張り詰めた空気に、美鳥は息を呑むしかなかった。何が起きているのかは理解できても、だからと言って心娃と香織の間に割って入ることなど、できそうになかった。
「一旦、外させて」
 溺れそうな沈黙をそんな呟きで破って、香織は少しよろけるようにも立ち上がると、引いた椅子を戻しもせず寝室へ去っていった。それを見送ってから、美鳥はぎこちなく心娃の方へ向き直る。心娃も微苦笑を浮かべて美鳥を見た。
「……母さんは、そうだろうなって思ってたの。ママは平気だとしても」
「それで黙ってたんだ。……香織は、私が説得するよ」
「うん――でも、どうかなあ」
 心娃は困った風に笑って、それっきり口を噤んでしまった。重く息苦しい沈黙がリビングに満ちた。美鳥と心娃の間にそんな空気が流れるのは本当に初めてのことだったし、正直なところ、想像したこともなかった。
「ごめんなさい。あたしのせいで、全部駄目になっちゃうかもしれない」
「謝ることじゃないよ。誰も悪くなんてないもの。誰も……」
 強いて言えば一人だけ、はっきりと悪いことをした人間がいたのだろう、と美鳥は心の中で呟いた。尤も、悪し様な想像を巡らすことも、妄想の中で何某かの制裁を下すことも、結局は無意味で虚しいばかりだ。
 ――それから美鳥は、香織が去っていった寝室へ恐る恐る踏み入った。ダブルベッドの真ん中で、香織は片膝を抱えて、苦しそうに目を閉じていた。
「香織。……」
「分かってたつもりだったんだけど。……わたし、どうしても呑み込めない」
 顔を上げないまま、呻くように香織は言った。
「分かってるの、知ってるの。祝福されないことが、してもらえないことが、どれほど――だから……なのに受け入れられない自分が嫌で。本当に嫌で!」
 香織がそんなにも声を上げたのは、美鳥と一緒にいる時間の中では初めてのことだった。――怒号ではなかった。それは紛れもなく悲鳴だった。だというのに、美鳥には為す術がなかった。声をかけることも、手を差し伸べることも、今の香織に対して何ら意味を持たないとしか思えなかった。
「美鳥は心娃のこと、祝ってあげられるでしょう」
 凍り付いたような沈黙の後、俯いたまま香織が言った。自分の気持ちを正直に伝える以外、美鳥にできることは何もなかった。
「――うん。ちゃんと見届けるつもりだよ」
「そう。なら、わたしと美鳥も、もうだめかもね」
 どうして、と口を衝いて出かかった言葉を、美鳥は呑み込んだ。呑み込んでしまった。そうかもしれないと、美鳥も思ってしまったから。
「心娃に幸せになってほしい。それだけは本当。だから――心娃の選んだ幸せを祝福できないわたしは、もう心娃に会わない方がいい」
 ――それから、あらゆる手続きは笑えるほどスムーズに進んだ。終わりにできるものは全て終わりにして、手放せるものは全て手放した。三人で暮らした部屋は、一人で暮らすには広すぎたから、三人が三人ともそれぞれの新しい場所を探した。
 三人で部屋を去る日、じゃあね、と美鳥は言った。またね、と言いたかったけれど、それが相応しいかどうか分からなかった。さようならという言葉は、左様ならば仕方ない、というところから来ている。そんないつか読んだ本の一節を思い出しながら、愛したひとたちと背を向け合った。

・・・

 話す相手もいないから、悠陽の両親に軽く挨拶をし、悠陽と心娃とも少しだけ言葉を交わして、美鳥は式場を出た。自分の車に乗り込んで、ハイヒールからフラットな靴に履き替え、帰路に就く。仰々しいドレス姿ではあるが、スーパーマーケットに寄って食材を買っていかないとならなかった。
 ――式場の駐車場を出て間もなく、通り過ぎた歩道にふとドレス姿の女性を認めて、美鳥は反射的にブレーキを踏んだ。
 バックミラー越しに確認すれば、その女性もこちらを見て瞠目している。何かに突き動かされるように美鳥はハザードランプを点けて、シートベルトを外して、助手席へ身を乗り出した。窓から頭を出す。
「香織」
「美鳥――」
「乗って」
 口を衝いて出たのはそんな言葉だった。香織は狼狽し、俯きがちに一歩だけ下がって、それからもう一度、美鳥と目を合わせた。


 道路沿いに手頃な喫茶店を見つけるまでには思いの外時間を要し、その間美鳥と香織は単語一つも口にすることができなかった。入ろうか、と美鳥が問うて、香織はハンドルを切れるギリギリのところまで躊躇って、うん、とだけ答えた。
 変に飾ったところのないチェーン店の二人席へ通されて、コーヒーを注文する。それが運ばれてくるまでに美鳥は言葉を選んだ。話題そのものはもう決まり切っていた。
「来てたんだ」
 運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、美鳥は切り出した。美鳥が何か言うまで、香織は何も言えないだろうという確信があった。
「わざわざ仕事休んでまでね」
「なのに会っていかなかったの?」
「うん。今更でしょう。じゃあ何で来たんだって話だけど」
「私に会いに来たわけでもないの?」
「どう……かな。分からない。何も分からないや。何をしに来たんだろう、わたし。ばかみたい」
 顰め面でも微苦笑になっても、香織の視線はずっと下に向いている。揃えた膝の上にバッグを寝かせて、真新しいハンカチをわけもなく弄っている。
「ちゃんとした式だったね。わたしたちの時とは大違い」
「何人呼んだっけ、私たち」
「合わせて一二か一三か、それくらい。それでも結構多い方だって言われたっけ」
「どうだった? 心娃」
「どう、って。幸せそうだったよ」
「そっか」
 ようやく、香織が背筋を伸ばした。随分皺が増えたな、と美鳥はやっと気付いた。粗を隠す化粧があまり上手くないのは相変わらずだった。
「わたし、美鳥と出逢えてよかった。わたしの分まで、心娃をちゃんと祝福してくれるひとがいてくれて」
 香織は肩を竦めて、本心であるはずのことを強がる風に口にした。まだ、壁がある。それを取り去ることはできなくとも、せめて罅くらい入れたくて、美鳥は口を開く。
「心娃が、香織に会ったら伝えてくれって言ってたことがあるから、言うね」
「え――、うん」
「母さんが許してくれなくたって、あたしは勝手に幸せになるよ、だって」
「……そう。それならいいわ。もう、そうできる年齢だし、元々しっかりした子だものね。まあ、わたしがこんなだから、しっかりしなきゃって思わせてたのかもしれないけど」
「それはね、あると思う」
 あの頃みたいに美鳥は笑って、あの頃をなぞるように香織も笑った。やがて笑い声が止まって、また二人の間に沈黙が降る。香織の視線がテーブルの上、湯気を立てるコーヒーカップへ落ちる。
「私もそうしよっかな」
 不意に、香織の姿を見た瞬間自分の背中を押した衝動の正体を悟って、美鳥は呟いた。香織が不思議そうに美鳥の顔を見る。
「あのさ。やり直せない? 私たち」
 香織は瞠目して、何を言っているのか分からない、とでも言うように美鳥を見つめた。美鳥はその視線を正面から受け止めた。視線でもう一度同じことを伝えるつもりで。
 香織の不自然に鮮やかな唇が、開きかけては閉じて、震えて、引き結ばれて、それを何度も繰り返した。美鳥は助け船を出さずに、ただ待った。店内BGMのチープなオルゴールの音色が、鮮明に耳に入ってくる。聞いたことは絶対にあるのに曲名が思い出せない、そんなクラシック曲。
「許してくれるの?」
 まるまる一曲が流れきって、次の曲に移った時、ようやく香織はぽつりと言った。
「許すとか許さないとかじゃないよ。ただ、私が香織と一緒にいたいっていう、それだけ」
 ゆっくりと、美鳥は言葉を紡ぐ。冷たい夜を包む毛布のように、じくじくと疼く傷に当てるガーゼのように。
「私は、これからも心娃のことを見守ってあげるつもり。悠陽くんのことも。でも、それとこれとは全然別の話。これは私自身の話。私、やっぱり香織のことが好きだよ。だからもう一度、やり直したい」
 香織は今度こそ唖然として、美鳥の顔を見つめた。万が一にも嘘やからかいに間違われないよう、美鳥も真っ直ぐに香織を見つめ返した。香織の返事など想像もつかなかったけれど、不思議と鼓動は落ち着いていた。
 ほんの数秒、或いは十数分、時間の感覚さえそんな風に曖昧になった頃、ふっと香織が唇を綻ばせた。
「こんな歳になって、愛の告白なんてされると思わなかった」
「私も。小っ恥ずかしい、ほんとに」
「子供みたいじゃない、もう……」
 香織は少し泣きそうな風にも笑いながら、顔を手で煽いだ。それから不意に項垂れて、深く熱っぽい息を吐き、口元を手で覆って肩を震わせる。美鳥はコーヒーカップに口をつける。香織が落ち着くのを待つ間、苦みの中に掠める酸味をゆっくりと愛おしむことにした。

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