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万引き犯を捕まえたときのこと

実を言うと、私は万引き犯を捕まえたことがある。

あれは大学生の時分。

秋口――最寄り駅前の本屋に向かおうと歩いている最中のことだった。


駅から私の家までの道にある、私が頻繁に使っていたコンビニの前を通りがかったとき、店舗から一人の男が駆け出してきた。

何をそんなに急ぐことがあるのだろう? と訝しんでいると、次いで、いつもレジに立っているやや年配の女性店員も駆け出してきた。

これはただ事ではない、と思っているとその女性店員は私に向けて「万引き犯よ! 捕まえて!」と叫んだ。


このとき、正直言えば、私はうまく反応できなかった。

まさか、そんな状況に巻き込まれるなど想像だにしていなかったのだから当然だ。もっと言えば、何を言われたのか、その正確なところを解するまでに少しばかりの時間を要していた。

ああ、これは俺が動かなきゃならないのか――。

そう解した頃には、その男はもう私の目の前まで来ていた。

しかし、この必死な形相の男を、大してガタイも良くない私が止められるだろうか。そう思案していると、不意に男が走るのを止めた。

まもなく男はその店員に捕まり、店舗の中へと連行されていった。


あれは、観念した、ということで良いのだろうか。

状況がいまいち飲み込めぬまま、私はそのコンビニの入口付近に、ただ一人取り残された。その店員は、すでに万引き犯と共にバックヤードへと消えていた。

私は、誰も私に注目していないことを確かめ、まるで自分が悪いことをしてしまったあとであるかのように、そそくさとその場を立ち去った。


さて、この話には後日談がある。

次の日、私が何の気なしにそのコンビニに立ち寄ったときのことだ。

商品をレジに出し、さて会計だ、と財布をズボンのポケットから出していると、店員から「あの――」と話しかけられた。

なんだろう? と思って顔を上げると、そこには、メガネをかけた若い女性店員の姿があった。

「はい、なんでしょう」

私がそう応じるとその店員は「昨日、万引き犯捕まえてくれましたよね?」と言ってきたのだった。


まあ、たしかにそれは事実だ。

上述した内容を見れば、ほとんど何もしていないに等しいじゃないかと言われても仕方ないかもしれないが、たしかに私がいたからこそ、彼も観念し、晴れてお縄となったわけだ。

しかしこの人は、あのとき万引き犯を追って店から駆け出してきた、あの少し年配の店員ではなかった。

「ちょっと待っててくださいね」

そう言って、女性店員はバックヤードへと消えていった。


彼女は、ゴディバのチョコレートを手にして出てきた。

「あの、これ店長からお礼です」と彼女は言った。

事態が飲み込めず「いえ、いいですよ、そんな――」みたいな、決り文句もまったく口をついて出てはくれなかった。

さらに彼女は「あの犯人、ずっと前からの常習犯で、いつか取り押さえたいと狙ってたんですよね」と、聞いてもいない情報を熱心に喋ってくれた。

「そ、そうなんですね」と私はそれだけをなんとか口にした。


ゴディバのチョコレートを持ったままの帰り道、気になったことがあった。

それは、先述したが、彼女が、店から駆け出してきた店員とは別人だった、ということだ。

しかし、彼女は私を、その場に居合わせた人物と同定し、チョコレートを渡してくれたわけだった。

つまりチョコレートは私向けとして店舗に置かれており、かつ店員は、私を私と同定する何らかの共通認識を持っていたということになる。

「あ、これ、絶対に俺、あだ名つけられてんな」

空に浮かぶ月を見上げながら、私はそんなことを思った。


以来、そのコンビニに行くと、あの大捕物以後初めて私を接客する店員は決まって「あの節はありがとうございました」と挨拶をしてくるようになった。

しかし、私は「あの節」で分かるが、他の人――特に、私の後ろに並んでいる人にとっては、何のことか全く分からない。

「あの節」と店員に挨拶される客など、ほかの客から見れば不審な人物以外のなにものでもない。

それに、逐一挨拶されるのが、なんだか妙にくすぐったくもあった。

おかげで、私はしばらくそのコンビニには行かなくなった。


就職し、大学時代に住んでいた街を離れる時期がやってきた。

引っ越しの準備をするため冷蔵庫を開けると、奥の方から、そのときもらったチョコレートが出てきた。

チョコレートなのだからただ食べればよかったのだが、「御礼の品」と言われるとなんだか扱いに困って、冷蔵庫に入れたまま忘れ去ってしまっていたのだった。

「そういえば、そんなこともあったなあ」と、そのときになってようやく冷静に、あの騒動を思い返すことができた。

引っ越し以来、あのコンビニには、一度も立ち寄っていない。

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