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チキントルティーヤの恋人「お題:チキントルティーヤ」

いつものカフェのいつもの場所でいつものように彼は私を待っている。彼が私を待つ間に暇つぶしに読む本はいつもばらばらでバラエティにあふれている、新書の時もあれば、仕事関係の専門書、料理や健康の実用書、流行の恋愛小説、ミステリー、SF、ホラー、ピカレクス、ジュブナイル、図鑑の時もあれば漫画の時もある。

「今日は何読んでるの?」

向かいの席に腰を掛けながら彼に尋ねる。

「ん」

彼は答えるのがおっくだという風に読んでる本の背表紙をこちらに向けて見せてくる。金色のやたら派手な背表紙に「現代貨幣理論入門」と黒く大きな文字が書き込まれている。この男の趣向は本当によくわからないなといぶかしく思う。確かちょっと前はプログラム関係の本を読み漁っていたような気がする。プログラムなんてわかるの?私の質問に、うーん。正直半分も理解できないかも…と苦笑いしつつ、嬉しそうにその本を読み続けてた。活字中毒か何かの類なのかしら?

空いている隣の椅子にカバンをかけて、申し訳程度にメニューをめくる、毎回の待ち合わせで使うこの店でほとんどのメニューは一回は既に頼んだことがある既知のものになってしまっている。私がいまだに一度も頼んだことがないのは、彼が毎回頼んで、丁度今彼の目の前に運ばれてきている「それ」だけだ。けれども、もしかしたら新メニューや期間限定のものが載っているかもしれない。淡い期待はしかし成就することなく、結局何回か食べた事のあるサンドイッチとコーヒーを注文する。

彼の読書が一区切りつくまでの間私はカバンから携帯を取り出しメールのチェックを済ます(彼は読書の途中で話しかけられるのをとても嫌がる)しばらく携帯をいじってると彼が本を切り上げる気配がしたので私も携帯をしまい彼に向き直った。

「待たしてごめんね」彼は心底申し訳なさそうに謝って見せる

「いや、先にきてたのは君だし、君だって私の事待っててくれたでしょ?」

「僕はほら、どうせ本を読んでれば時間とかは気にならないしさ」

昔買ってた実家の犬を思い出させる憎めない表情で彼は少しだけはにかんでみせる

「その本はさ、どうして読もうと思ったの?経済とか興味あったけ?」

んー。彼は少しだけ考えて、それから、いや表紙が金ぴかで目立ってたからかな?と何ともまの抜けた返事を返してくる。やっぱ活字中毒の類じゃないかしら?彼の行動が全く理解できなくて、私は大きくため息をつく。

私の呆れたような雰囲気を感じ取った彼はいたずらをとがめられて子供のように拗ねた様子でわたしに抗議する。

好奇心を失いたくないんだよ僕は、新しい事、知らないことに興味を失ったら生きている意味のほとんどが失われるような気がしない?

脅迫的な知識欲求。やっぱり私には彼の気持ちを上手く理解してあげる事が出来ない。

「私は逆かなぁ」

呟くと彼は怪訝な顔をして聞き返した。

「逆?」

私はさ、逆に色々知ってしまうのが怖いんだよね。全部知ってしまったら今の興味が薄れちゃいそうで、気持ちが冷めていきそうでさ。わからない物をわからないままで、いろいろ想像してる時間が好き。例えばさ、君がいつも食べてるそれとか。

私が彼の注文したチキントルティーヤを指さしてそういうと彼はまたも怪訝そうに首をかしげる。

私は君を思う時、君に会うまで、見たことも存在することを認識してなかったそれの事をよく考えるの、どんな味で、どんな食材が使われてて、君がそれを好むようになったのかいきさつとか、出会いとか、もろもろを思うの。もしもいつか君が私の傍を離れて行ってしまったとするじゃない?時間が経って記憶が薄れて君と私の距離が遠く遠く離れて取り返しもつかないほど離れて行ってしまう時が来るかもしれない。でもねふとした拍子にたとえば喫茶店のメニューで偶然それが載っていたのを見つけたときとか、そういう時にね「彼がいつも食べていたチキントルティーヤって結局どんな味だったんだろう」って考えてしまうの、その時ね私は君の事を鮮明に思い出せる気がするの、いつまでもいつまでも君を忘れないでいれる気がするんだよね。いつも待ち合わせのたびにチキントルティーヤを頼んで私の事を待っていた恋人

「他にももっと思い出すべきことあるだろ?」

彼は不服そうにつぶやく

「だからもちろんたとえよたとえ」

私はもちろん君の全部を知りたいと思ってる、でもそれが不可能だって理解してしまう事も、逆にすべてを知り尽くして納得してしまう事も怖いんだよ。だから敢えて知らない部分を残しておきたいと思うの。君の大好きな「それ」の事を私は全く知らない。それはとても些細でばかばかしいものかもしれないけど。私にとってはお守りみたいなものなの。君の事を全部は理解できないって事と、それでも一緒に居られるって事両方の。

「チキントルティーヤの恋人」

まぁゴロはいいかもしれないけど、しばらく考え込んでから彼は何かに得心するようにつぶやき、しばし考え込んで、それからとてもおかしそうにクックックッと声を忍ばせて笑う

「君は物凄く常識人に見えるけど、ときどきものすごく変な事を考えてるよね」


「じゃなきゃ貴方みたいな変な男と付き合う訳ないじゃない」

なんだかバカにされているような気がして、私は失礼なこの男に精いっぱいの嫌味を返したつもりだったのだけど

「それはまぁ、確かにそうだね」

彼はまんざらでもないと言った顔で嬉しそうにわらって目の前のチキントルティーヤを頬張った。私は彼がおいしそうに頬張る「それ」がどんな味なのかを未だ知らないままだ。





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