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「お題」オルゴール

帰ってドアを開けたら、父のでもない私のでもない、いかにも仕事のできる女の人って感じの黒いパンプスを見つけてしまって、私はしばしその場に立ち尽くす。「香織さん」が家に来てるのだという事実が私の胸の内に黒く硬質な重しとなってのしかかる。このまま回れ右をして、玄関から逃げ出してしまいたいけど、それをしてしまうと、父も香織さんも私の行動を不審に思い訝しがってしまうだろう。そもそも、ここは私の家で、なんで私がこそこそ逃げ出さないといけないというのだろうか。馬鹿馬鹿しい。私はその場でしばし逡巡し(5分?10分?それとも30分?)、最終的にはえいやっと心を決めて開き直り『ただいま』と部屋の奥にいるだろう父と香織さんに呼びかける。どちらにせよこれだけ玄関で時間を浪費してしまってる時点で父達に「私の戸惑い」を察知されるのはさけられないだろう。えーえー、繊細な16歳の乙女の心を激しく動揺させている、醜い大人のエゴを存分に心に刻んでくださいってもんですよまったく。まったく。

そのまま自分の部屋に駆け込みたい衝動を押し殺し、一応父達のいるであろうリビングに顔を出す。非常に億劫な気のめいるミッションではあるけれど、あとから私の自室まで上がりこんでこられたらまったくたまった物ではない。最初にここでくぎを刺しとくのが手っ取り早いのだ。

「お父さんただいま、あと香織さん、いらっしゃい、ご無沙汰してます」

そう言ってぺこりと頭を下げる。無邪気な少女を演じる健気な私の演技に、何がおかしいのか父はヘラヘラと笑いながら、『香織さん』は女性の私が見てもほだされてしまいそうな満面の笑顔でおかえりなさいと答えてくれた。

「百合ちゃん、これ、前百合ちゃんが話してくれた駅前のモンサンクレールで買ったケーキなんだけど。一緒に食べない?私ちょっとはまっちゃったかも」

嬉しそうにいそいそとケーキの箱を開けようとする彼女は、私よりも10も年上だとは信じられないくらい無垢であどけない少女のようで私は圧倒される。彼女のこの笑顔が演技でも、あるいは素の感情から発せられるものでも、私はこの人にかなわないという敗北感がひしひしと胸の内にこみ上げてくる。もちろん私が彼女に対抗心を持つ理由なんて何にも、何処にもないのだけれど。どうしても私は素直に『香織さん』を認められないし、認めるわけにはいかないのだ。そんなことになったらあまりにもお母さんが可哀想じゃないか

「宿題…」

絞り出すように私は言葉を吐き出す

「今日は宿題がたくさん出てて、それをやらないといけないので、ごめんなさい。…お父さんも…絶対部屋来ないでね」

それだけをかろうじて何とか伝えると私は逃げるように自室に飛び込んだ。子供っぽい感情が駄々漏れで何一つ繕えていない。自分の子供っぽさにつくづく嫌気がさす。父の無神経さも、『香織さん』が私に向けるオブラートに包んだ好意みたいな物も、すべてが憎らしく疎ましかった。

母に会いたい。と強く思う

母が生きていれば、私が苦しい時辛い時いつだって私を励まし慰めてくれた。母がいれば。母がいさえすればどんな時も、どのような苦しみも致命的に私を傷つける事は不可能だった。母がいてくれればこの苦しみもきっと耐えがたいものではないだろう。そう思って、そもそも母がいなくなったことがこの苦しみの元凶なのに、母にこの悲しみをぬぐって貰う事を願う滑稽さに気付き苦笑する。

悲しい時はいつも母がオルゴールを鳴らしてくれた。私の生誕からずっと付き添ってきたなじみのある音色。

クラスの演劇でやりたい役が貰えなかったとき

親友の茜ちゃんと喧嘩した時。

好きだった新が転校して離れ離れになったとき。

私が泣いていると、母は私を抱き寄せ「百合ちゃんは赤ちゃんの時どんなにぐずっててもこのオルゴールを流すと泣き止んでくれたのよ」と教えてくれた

母の暖かな腕の中でその音が響くと不思議と悲しみはいつだって濃度を薄めていき、やがて霧散し消えていった

机の上のオルゴールのねじを回す。少し不器用でたどたどしいなじみのある音楽が部屋を満たしていきやっぱり私の心は少しだけ軽くなる

『香織さん』は決して悪い人ではない。頭ではそれはわかっている。優しく朗らかで、お洒落で、面倒見がよく、もし彼女が私の母になりたいのでなければ私はたぶんもっと素直に彼女になついていただろう。彼女は女の私から見ても非を見つけるのが難しいくらい魅力的な人だ。

もちろん男の趣味は全然理解できないけれども。とはまぁ思う

父は、裏切り者だ。あんなにも私たちを愛して、大事に思ってくれていた母を忘れて、他の女にうつつを抜かすなんて信じられない背信行為だ。でも、だけど、お父さんにだってお父さんの事情があることだって私はもう察してあげられる年齢だ。母が死んだあと、私よりひどく傷ついていたのはきっと父のほうだ。私の前ではけっして涙を見せないで「お母さんが心配しないように出来るだけ笑顔ですごそうな」そう言って私に笑って見せてた父が、毎日私が眠ったあと一人台所でおえつを漏らして泣いていたのを私は知ってしまっている。あれだけ気も狂いそうな大声を上げて、わたしがきづかないわけがないじゃないか、詰めが甘すぎるだろう。それでも、気が狂うくらい苦しく泣き叫ぶほどの悲しみを、父は決して私の前で見せようとはしなかった。慣れない手つきで家事をこなしつつ、私に楽しい姿だけ見せようとした父の愛に私はとても救われてきたのだ。たかが3、4年の時間で母を忘れようとする許せない裏切りはそれとして、結局私は父を心の底から憎むことも非難することも出来そうにない。

それはそれとして「お父さんがとられるみたいで百合はさびしいかもしれないけど…」じゃあないんだよ、そんな配慮は一ミクロンたりとも必要ないんだよ頭の中おがくずでも詰まってるんじゃないか?とはまぁ思う。

母はいつだって私たちの幸せだけを願うだろう、それが果たされるなら、自分が忘れられることも、明らかな背信行為だって歯牙にもかけはしないだろう。死者の気持ちを代弁するのは、どう考えても傲慢に過ぎる行為であるけれど。母が必ずそう選択するだろうという私の中の確信は揺らぎようもない確実なものに思える

『香織さん』は決して悪い人間ではなく魅力的で

父には父の想いと事情があり

おかあさんはきっと私たちの幸せを一番に願うだろう

それじゃあ私は?

私は……。

私は嫌だ、絶対に嫌だ。かつて母がいた場所に他の誰かを受け入れるなんて絶対に嫌だ。そこは母のいるべき場所だ。誰も立ち入っていい場所じゃない。新しい家族なんていらない。認められない。一度死んだ母から更に居場所まで奪うような真似は絶対に許容できない。私だってわかっている。これは子供じみた感傷だ。『香織さん』も、父も、死んだ母も、当然私も誰も幸せにならない。最悪の選択だ。

おかあさん。ごめんなさい。私はとても悪い子かもしれない。お母さんを忘れて幸せになんてなりたくない。絶対なりたくない。

暖かで懐かしい母との思い出の詰まったオルゴールの音が部屋中を満たしている。どんなにぐずっていてもこの音を聞くといつも百合は泣き止んでくれたのよ、母がそう教えてくれたオルゴールの音色が、なぜか今日は私の頬からとめどなく熱い滴を湧き上がらせ続けてる。

おかあさん。おかあさん。私はどうすればいい?私は悪い子なのかな?わからないよ。全然何一つこれっぽっちだって、分からないよ。会いたいよ。お母さん。おかあさん。











お題は 実村 文 様より頂きました

演劇論が興味深い

私は演劇の事は全然わからないしがない駄文書きではあるけど

物語を作るという根底に相通じるものがあるかなぁと勝手に思っています。

特にこのリアルとリアリティのお話はとても好きで文章好きならおすすめ記事です。

お題ありがとうございました。



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