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アンチテーゼ~論理的思考なんていらない

 そもそも論理的思考とはどういうことだろうか。
 物事を理解する上では、まずその対義語を抽出する。
「非論理的」とは「感情的」や「直観的」といった言葉があり、英語なら「ロジカル(logical)」に対して「イントゥイティブ(Intuitive)や「エモーショナル(emotional)となる。これらの中間的カテゴリーは「経験則による直観」になるだろうか。

 世の中に論理的思考が苦手な人や逆に直観を頼りに決断するのが苦手な人はいるが、論理的思考ができない人や直観がない人、感情的な決断をしない人はいないと思う。

 論理的思考の重要性は特に問題解決への最適解を得るのに有効ではあるものの、僕から言わせれば、それだけが最適解を導く手法だとは思っていない。

 思考は総合力こそ重要で、そこには論理的思考に基づく仮説の複数提唱とその中でどの仮設を選択すべきか、或いはこれはしてはいけないと判断するかについては直観が頼りになる場面もある。
 また「感情論」を無視した選択は、周囲との摩擦や誤解を生むことになるし、モチベーションとして感情的な選択、シンプルに言えば好き嫌いといった好みを優先したほうがより効果的な問題解決につながることもある。

 ゆえに論理的思考による問題解決を導くトレーニングなるものは無駄ではないが、必ずしもいい結果を生むとは限らない。そう考えられる、つまり疑うことができることこそ、論理的思考の目指すところなのだと僕は考えている。

 悩み相談をする際に、僕が好んで使うのは「時には感情的になることが問題の解決になる」という言葉だ。周囲に「こうすればいいのに、なぜしない」と論理的な攻めを受け、それで悩んでいるときは特に必要なことで、誰にとって何が好きで、何が嫌いかは、当たり前に大小の誤差がある。当人の嫌なこと、好きなことを周りが理解できていないと問題解決にならないケースもあるという意味、そして感情というブースターによって論理では伝わらなかったことが伝わる場合もある。

 そしてここからが要の話になる。
 論理的思考を意識してする必要はない。なぜなら意識してするのでは非効率であり、尚且つエラーを起こしてしまう場合がある。この場合のエラーとは論理的思考の大前提として正しい情報分析が必須で、それがなければ間違った結果を導いてしまう。しかし人は直観で、なにかおかしいと感じるものである。そして概ねそれは正しい。
 正しい答えを導くには必要なパラメーターをできるだけ正確にインプットする必要があるが、論理的思考が身についている人にとってそれは至極日常的な作業であり、逆に言えば間違ったパラメーターが存在する可能性もしっかりと考慮できる。つまり不確定要素の幅があまりにも大きいと論理的思考をする意味をなさないことを直感で理解できているので無駄に論理的思考に落とし込むことがなくなる。

 自然に論理的思考をしながら、直観を軽視せず、感情を殺さないような結論にうまく持ち込む。これが論理的思考の神髄であると同時に、意識してやろうとした段階で破綻に向かう可能性を秘めていると言える。

 論理的思考をうまく使うには日ごろからの鍛錬が必要で、若ければ若いほどいいし、それが遅れたとしても、気づいたときから丁寧に身近で小さなことから積み重ねていくことでしか効率的な実現は不可能だと言っていいと思う。

 かといってそうした書籍やセミナーを受けることを無駄だとは言わないし、遅いことはあっても遅すぎることはない。ただ、やみくもに論理的思考に頼り、それがうまくいかないことに幻滅する前に、論理的思考は万能ではないし、使い方次第ではむしろ害悪になりえることを理解してほしい。

 考えても見て欲しい。論理的思考によって「生きる意味」を見出そうとするのはナンセンスだ。やりたいことを実現するために使うのはありだが、何をするべきかに論理的思考を用いると「生きている意味なんてない」なんて結論に達してしまう可能性があることを忘れてはならない。そしてそんなときに「そんなはずはない」と強く否定できるのは直観や感情なのだということを。

 論理的思考に頼り切ってはいけないのだ。

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