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これじゃない感の正体~ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3を観て

 GWの一番のイベントというか、今年の最大のイベントは5月3日にガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3を観に行くことだった。たかがヒーロー映画、そしてその3作目になぜそこまで思い入れがあるかと言えば、それは単純に『乗り遅れたから』に他ならない。

 2008年にアイアンマンが公開されそこからMCUはスタートした、それをさかのぼること6年前にソニーがスパイダーマンをヒットし、シリーズの人気はすごいものだった。

 しかしながら1989年のバットマン、さらに1978年のスーパーマンもしかり、大ヒットからシリーズ化されその後人気が衰退していく様を僕は10代の頃に経験し、長く続くとろくなことにはならないという固定観念に近いものをこの手の映画には持っている。

 ゆえに僕はテレビ放映されたときに見るレベルでこの手の「ヒーローもの娯楽作品」に対して一定の距離を保っていたし、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの世界的なヒットも、フランケンシュタインみたいな木の怪物と口の悪いアライグマが出ている「ありがち」な娯楽映画と高をくくっていた。

 特にこの予告映像は正直今でも頂けなと思う。

 さて、ガーディアンズ公開から5年たってから僕はこの作品を観るきっかけを得た。

 映画を紹介してくれた人は地方に住んでいる方であり、リモートでPCをつないでこの映画を一緒に鑑賞できたのは、まさに時代と飛行機でないといけないような距離が可能にしてくれた縁とタイミングだった。

 以降、僕はすっかりこの作品及びMCUの世界にはまることになるのだけれども、実際に劇場でMCUを体験したのは「キャプテンマーベル」からであり、次作の「アベンジャーズ エンドゲーム」は、それまでの物語の集大成的な作品で、つまりは最終回だけ映画で見たようなものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=S747rLiAeFE

 もちろん、その前にほぼすべてのMCU作品をDVDで鑑賞し、最後の祭りに参加する資格は十二分に持って参加したので思いっきり泣くことができたのだけれども、実はその頃から、「これじゃない感」を僕はずっと引きずっている。

 それは簡単に言えば熱量なのだけれども。この動画はネタバレありなのでご注意ください。


 この「おまけの夜」というチャンネルの熱にあてられてこの祭りには自分も参加せねばと寝る間も惜しんでMCU作品を観るにとどまらず、考察動画などをあれこれあさって知識をぱんぱんに詰め込んで劇場に臨むという行為自体は楽しいのだけれども、果たしてこれは「映画を楽しむ」という今までの自分の姿勢とはどこか違っている。果たしてこの熱量を同じように誰かに伝えることはできるのだろうか?

 違和感の正体――それは自分の周りにここまでの熱量で映画を語る人がいないとは言わないまでも少なくなり、いわゆる一般的に映画を娯楽として楽しんでいる人との乖離がどうしようもないほどになってしまったことにある。その疎外感なのか閉塞感なのか、もやもやした感じがずっと付きまとっている。

 さて、ガーディアンズ3を堪能した僕は、いよいよそのこれじゃない感の正体を知ることになる。映画のできそのものはとても満足しているにも関わらず、どこかこれじゃない感が頭の片隅にこびりついている。「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」は、ある意味映画の歴史を変えるような画期的な作品であったのにもかかわらず、「これじゃない感」はより色濃いものになっていた。


 逆に「ドクターストレンジ マルチバースオブマッドネス」では、どこかほっとしたところがあり、その理由は「映画は誰のものなのか」という問いに対する僕の答え「映画は監督のものである」に行きついたことにある。
 サム・ライミ監督はディズニーであるとかマーベルスタジオであるとかは関係なくサム・ライミだった。

 ディズニーとマーベルがタッグを組んで作り上げてきた昨今の作品には熱狂的なファンに対するサービスとと新たなユーザーの獲得のための「わかりやすさ」という、まったく逆のベクトルに対して「つじつまをあわせる手法」に苦心しているように思える。

 ジェームズ・ガン監督がガーディアン2を撮った後、過去のネットでの投稿が暴露され、それを理由にディズニーをいったん追われることになり、その後DCコミックの作品を2本(1本はドラマ)撮っている。そこで見せた監督の作家性はまさに映画は監督のものであるという主張に他ならないといえる振り切り方をしていた。

 ガーディアンズ3はコロナや監督の契約解除という事態を受け、予定よりもかなり遅れて撮影されている。その間、MCUの環境も規模や作品群同士の絡みつきも大きく変わってきており、ガーディアンズがどこまでガン監督の作品として出来上がっているか、正直不安な面もあった。

 蓋を開けてみれは、どこをとってもガン監督の世界であり、それはとてもうれしいことであったが、しかしながら振り切り方としては、どこかはぐらかされているような展開に心が追い付かない人もいるのではないかという不安を感じるシーンがいくつかあった。

 そこを気にせず楽しめるくらいに自分は「初めて劇場で見るガーディアンズ」に興奮してしまっているからアドレナリン全開でガンの世界にダイブすることができたのだけれども、そうでない人も少なからずいることは容易に想像できた。

 これじゃない感の正体はインディーズアーチストがメジャーと契約して華々しくデビューしたときのそれに似ている。

 自分だけのヒーローがみんなのヒーローになってしまったようなさみしさがそこにある。そしてその嫉妬にも似た負の感情が絶妙なバランスで出来上がっているガーディアンズ最新作に対して、ああ、ガーディアンズもどこかこじんまりとして、人気コミックが連載が続くとすべての事象が記号化されてしまうような状態に「見えてしまっている」のだとわかる。

 つまり正体そのものは、個人的な感情のもつれでしかない。思い入れが深ければ深いほど、どこか自分が蚊帳の外にいるような疎外感を見つけてしまう悪癖のようなものなのだ。

 そしてその治療方法は柳生玄十郎氏のように、コミックをキャラクターを愛してやまない、むしろ病んでいるスーパーファンの熱い思いに触れて、ああ、これでよかったんだ。「これでいいのだ」に心の天秤をリセットすることなのかもしれない。
ネタバレ注意!


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