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恋の連立方程式を解くゼロの仮説

 あまり期待しないでください。でも読んでは欲しいし考えてみても欲しい。なんなら試して欲しいと思う思いつきのnote。

 物語を書くことをライフワークとして10年以上続けているとちょっとした壁にぶち当たることがある。書き手のスタイルによってさまざまなのだろうけれども、僕の場合は「登場人物が動けなくなる」という現象だ。

 それをするのが演出家としての僕の役割でもあるわけなのだろうけれども、こと「笑い」と「色恋ごと」になると「果たして、これでいいのだろうか」と筆が止まる(正確にはキータッチする指が止まる)のである。

「恋の連立方程式」とはよくいったものだが連立方程式とは、

二つ以上の未知数を含む方程式(多元方程式)の組があって、同じ文字が表す未知数は各方程式において同じ値をとるものとするとき、これら方程式の組を連立方程式といい、すべての方程式を同時に成り立たせる未知数の値の組を、連立方程式の解(根(こん))といい、すべての解(解集合)を求めることを連立方程式を解くという。各方程式が一次であるものを連立一次方程式、各方程式が二次(または一次を含んでよい)であるものを連立二次方程式という。

竹内芳男

ということであるのであれば、ここに恋を代入すると
「二つ以上の未知数を含む方程式の組」とは
①2x+3y=7 ②3x-4y=2の二つの式からXの値を求める

これを解けばy=1である。この値を〔1〕に代入してx=2が得られる。
男Xと女Yの「本当の気持ち」があり、二人がどんな状態(係数)で出会うと7という結果(和)や2という結果がおきた。この和の数値というのは愛が深まったとか逆に喧嘩になったとか、二人(XとY)がそれぞれ期待している和になったのかどうか。係数は積極性や行為や言葉ということになるだろうか。

 物語を進めるに当たり、登場人物である主人公とヒロインがすれ違いを繰り返しながらも結ばれていくようにしたいのであれば、Yは3という大きさの思いを相手にぶつけたのに、和が思っていたよりも小さかった。YはXの行為が2という係数であるのであれば、もっと和が大きいXだと思っていたのに、どうやら違うようだ。
 ここにすれ違いが起きてしまう。XはXで和が大きくなってしまったことに戸惑いを感じ、今はその数値はなるべく小さくして、やりべきことをやらねばならぬと思っている。

 XもYも人間である以上、自然数ではないアナログで変化をする存在であるから、同じ係数(行動)をとったとしても、時間軸とともに変化をしていくし、経験やきづきによっても大きな変化を超えて変質することすらある。

 若年期であれば、それは「これが人を好きになることなんだ」というきづきを描く恋の物語になるだろうし、青年期であれば「どうしたらこの気持ちを伝えられるだろう」という苦悩の物語になる。壮年期であれば恋も選ぶし生き方も選ぶ人生の選択になるだろうし、熟年期になれば時間軸と価値観のせめぎあいにもなるだろうし、選択の誤りを正す、またはそれを繰り返す人の性を描くことになるだろう。

 そしてこのように小難しく考えることの無意味さが露呈する。

 恋の連立方程式など実生活では約には立たないと。

 しかしだからこそ、僕はそこにこだわる必要がある。恋愛小説など、連立方程式を解く必要がある人は読みはしないのだ。

 僕は自分が物語を書く意味について、ときどきじっくりと考えることがある。考えようとしているわけではなく、いわゆるスランプになったとき(僕はそれをスランプとは認識せずに補給が必要なときと考える)に、何がしたくて時間をそれに費やしているのかと問う。

 僕は人の心のメカニズムを解きたい。難しい数学の難問に立ち向かう数学者のようにありとあらゆる思考方法を試し、いろんな仮説をたてるのだ。答えを得るのが目的ではなく、その仮説を立てる作業がどうしようもなくすきなのだと。

 だから、結論(真理や真実や構造解析)を求めているわけではないので、もっと冒険(極端な仮説)をしてもよいのだという物語を書き始めた頃のわくわくした感覚に戻るルーティン(スランプからの脱出)を繰り返しているだけなのである。

 さて、僕はずっと考えていたある疑問の答えを最近得た。それは連続殺人犯の行動原理、彼の真意を紐解くような危険な考察に近い。なぜ人は人を好きになるのか。そして人を好きになったときの行動はときに他者に対し残酷で、無慈悲なのかという正直知りたくもないような暗部についての結論に至る仮説を見出したのである。

 nX+nY=0かつnX-nY=0が成立する関係がもっとも理想的な恋愛の形である。

 これは数式によって確かな実数を求めるよりも近似値を求めるのに近いのかもしれない。悪い言葉で言えば見返りを求めない愛、無償の愛ということになるのだけれども、どんな状況であっても、どんな複雑さであっても、その二人の和や差はつねにゼロに近い状態を保てる関係こそ、人知れず育むことができる

かけがえのないのない人間関係

となるのかもしれないという仮説である。

 ゆえにどのような醜態も狡猾さも無粋さもその二人が一緒にいるときに「何もない」がごとき振る舞い(観察者から見た様)ができれいるのであれば、それは理想的な恋愛だといえる。

 ただこれには理想的な家庭や理想的な家族や理想的な人生などとはまるで交わらない「状態」であり、ときに破滅的で快楽的で楽天的、その一方で創造的でひたむきでしたたかだとも言える。

 人と言う動物にはなぜ心があるのだろうか。生きる為に心が必要なのであれば、恋愛は心でするものであって動物的本能でするものとはやや異なる。恋愛のあり方を紐解けば人の心がどういうものかを推し量ることができ、それによって人の心とは何かを見ることができるのではないだろうか。

 この命題に対して僕はどこまでも真摯であろうと思っています。そして新たに得たゼロになる関係が理想と言う仮説を俯瞰で見れば、そもそもこの世界にはゼロは人が作り上げた概念であって、完全なるゼロ=無の実在を観測することは不可能というパラドックスに似た構造に頭を抱えるわけですが、ゆえに解けない謎は至極の娯楽なのだと、僕は思うのです。

 まぁ、よく言ってペテン、悪く言えば恋愛に妄執するもてない男の妄言なのかもしれませんが、ごく身近な人の理想的な恋愛をしている人たちはどんな状況(係数)のときも何も得ずとも、何も与えずとも成り立つ関係でありのではないでしょうか。

 あくまで仮説ですが、今はこの解がもっとも腑に落ちるような気がします。

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