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家族を持つことをめぐって

 子どもが生まれると「家族」という言葉がしっくり来るようになる。旦那さんと二人家庭だったときの「夫婦」の感覚ではなく。そうして「家族を持つ」と、そうなれなかった人たちについての記憶が、ふっと頭をよぎる。
 
 5,6年前まで、自分も家庭なんか持てないと思っていた。当時はまだ20代も前半で、でも誰とも付き合ったことがなくて、そういう自分がコンプレックスだった。恋愛経験がない、どころじゃない解決しなきゃいけない問題がたくさんあって、ずっとボロボロだった。
 
 普通に結婚して、普通に家庭を持つ。ということがすごく遠く思えた。
 母親に愚痴ったこともある。
 
「いまから誰かと付き合い始めて、それから2-3年交際して、結婚して少し経って出産だとして、いま恋人がいないと間に合わない。それなのにいない。若ければ若いほどモテるって言うけど、若いのに何もない私は、もう一生『ダメ』だと思う」
 
 思考がぐちゃぐちゃになって半泣きの自分に(「間に合わない」って何に?)、母親はゲラゲラと笑ってみせた。
 
「あのねえ、結婚・妊娠・出産なんて、一年あればできるのよ」
 
 そのときは「なんの慰めにもならない」と感じたけど、結果的に母親は正しかった。当時よりも年齢を経てから、出会った人とすぐに結婚を決め、妊娠した。初対面から1年も経たずして子どもが生まれた。時計の針は、動くときにはとても速い。
 
 一年あればできる、という母の言葉は、予言に等しかった。自分はその通りの人生を歩んだから。いま「家庭を持ててよかった」という実感はそれほど湧いてこないものの、そんなことに無自覚でいられること自体、幸せだと言っていいだろう。
 
 むかし見たテレビ番組を思い出す。
 スラム街に出入りしている人が、こんな話をカメラの前でしていた。

 
 薬物中毒で、ネズミの出るような地下に住んでいる男性が言うんです。「畜生、オレだって家も車も家族も欲しかった」と。「でもこの街にはクソみたいな仕事しかない。貯金も結婚もできないし、おもしろいことなんて何もない。薬物に走るしかないんだ」と。

 
 世間一般には、そういう中毒者はもう「話の通じない人」として扱われがちだ。でも彼らだって家族が欲しい。欲しかった。家も車も。「まとも」に生きられるなら、それに越したことはなかったんだ。好き好んで薬に溺れたわけじゃない……。
 
 あるいは、いつだったかSNSで見た投稿。バスや電車で、妊婦に席を譲るかどうか?という話に

「俺は女にありつけたことだってないのに、なんで愛され孕まされた女に、俺が席を譲んなきゃならないんだよ?」

と書いた人がいたこと。
 
 事のレベルはぜんぜん違うけれど、そういう色々な話がふいに頭にうかぶ。
 
 それはまるで、人の不幸を基軸に自分の幸福を確認しているようで、褒められた行ないじゃない。褒められたものじゃないけど、彼らを見なかったことにしていまの境遇に不満を言うよりは、なんぼかマシだろう。
 
 ときどき「女性は妊娠、出産で自分の人生を犠牲にしている」という物言いを見る。その犠牲すら、望んでも手に入らない人がいるけど、と思う。なんで当然のようにそれが手に入る前提で、しかも被害者ぶるんだろうか……と考えたりする。
 
 もちろん、自分の時間も理想のキャリアも素敵な夫婦生活も美しい子育ても何もかも、一切合切手に入られたらいいだろうけど。「すべてを手に入れたい」という欲望が叶わないのを「犠牲」って呼ぶのはどうかな。
 
 なにかを掴んだら、なにかを放さなくてはならない。両手で掴むと、身動きが取れなくなるから。
 
 一人暮らしの頃を振り返って、あれはあれで自由でよかったと懐かしくなることはあるけど、それがいまの生活を否定することにはならなくて。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。